四君子 ―高潔なる植物画―
令和4年2月1日(火)~4月10日(日)
四君子(しくんし)とは東洋絵画の画題の一つで、蘭・竹・梅・菊を指します。これらの植物が好まれたのは、蘭は深山幽谷で人知れず香る奥ゆかしさ、竹は真っすぐに伸びて風に折れない節操、梅は雪の中でも寒さに耐えて花を咲かせる健気さ、菊は厳しい晩秋の霜にも屈せず咲き誇る気概というように、それぞれの特徴が俗に交わらず知性や礼節を兼ね備えた理想的な人物(君子)と重ねられたためです。
日本では江戸時代に中国文物への憧れから長崎を通じて普及し、初心者が最初に学ぶべき画題とされたことから、絵を好んだ大名の作品の中にもよく見られます。また、その精神性の高さから儒学者たちに好まれ、筑前福岡でも亀井南冥(かめいなんめい)の一門が優れた作品を残しました。
本展示では館蔵資料からこうした四君子をテーマにした作品を選び、その高潔なる美の世界をご覧いただきます。
◇四君子の源流
中国で植物を主題とする絵画が登場したのは唐時代に遡ります。当時の代表的な画家であった呉道玄(ごどうげん)が墨竹図を描いたことが記録に見えるほか、官僚詩人で後に文人画の祖と称(たた)えられた王維(おうい)も竹図を描いて名声があったと伝えられています。ただ、本格的に植物画が画題として成立したのは北宋時代のことで、この頃にはようやく梅や蘭、菊の名手も現れました。また、新たな解釈による画題の組合せも生まれ、厳寒の中でも常緑を保ち花を咲かせる松・竹・梅が歳寒三友(さいかんのさんゆう)と呼ばれ、清廉潔白を尊ぶ文人の理想を象徴するものとして好まれました。
ところで、蘭・竹・梅・菊が一組にされたのは実はそれほど古い話ではなく、清時代の康熙(こうき)40年(1701)に出版された王概(おうがい)編『芥子園画伝(かいしえんがでん)』第二集にそれぞれの画譜が収められているのが早い例と言われます。その解説には、蘭を描くのは戦国時代・楚(そ)の忠臣で諫言(かんげん)むなしく悲壮な最期を遂げた屈原(くつげん)を、竹は中国最古の詩文集『詩経(しきょう)』に詠まれた衛(えい)の武公(ぶこう)を顕彰するものとして、また梅は鶴と梅をこよなく愛して生涯清貧を貫いた北宋の隠士・林和靖(りんなせい)を、菊は魏晋南北朝時代の田園詩人・陶淵明(とうえんめい)を敬愛するに等しい、という趣旨が記されています。
屈原以下はいずれも君子として代表的な人物であり、そこからは歳寒三友に通じる中国の伝統的な芸術観を読み取ることができます。つまり、四君子を描くのは単に見た目が美しいからではなく、草木がもつ佇(たたず)まいの中に世俗に染まらない高潔な人格を表現し、またそれを鑑賞するためであったことがわかります。
◇日本における受容
日本では、室町時代から禅僧の余技として水墨の梅図や蘭図が描かれるようになり、五山(ござん)禅僧による優れた作品が残されています。しかし、画題としての四君子が本格的に受容されたのは江戸時代以降のことであり、元禄年間(1688~1704)に『芥子園画伝』が長崎を通じて輸入され、日本の画家たちが学んだのが始まりと考えられています。同書は寛延元年(1748)に最初の和刻本が発刊されていますが、その後も度々重版され、江戸時代後期の文人画壇に絶大な影響を及ぼしました。
一方、こうした中国のテキストだけでなく、日本人画家の中にも四君子の画論書を出版する者が現れました。長崎で中国人画家の宋紫岩(そうしがん)から沈南蘋(しんなんびん)の画法を学んだ宋紫石(そうしせき)(1715~86)もその一人で、安永8年(1779)に『画藪後八種四体譜(がすうごはっしゅしたいふ)』を著わしています。紫石はその中で「蘭竹梅菊の四体は、蓋(けだ)し初学の画者の門戸(もんこ)たり」と述べ、四君子は絵を学ぶ者が最初に学習すべき題材と位置付けています。こうして、四君子は日本人の教養や文化の中にも深く根を降ろしていきました。