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No.581

企画展示室2 黒田記念室

博多祇園山笠展21

令和4年6月21日(火)~8月28日(日)

江戸時代の山笠の標題

 江戸時代の山笠の標題(飾りの題材)は、「山笠番付」と呼ばれる毎年の標題を書き継いだ記録から知ることができます。今回展示している「山笠番付」【資料6】は、山笠の人形製作に携わった人形師・小堀(こぼり)氏の関係者が、天明(てんめい)元年(1781)から文久(ぶんきゅう)3年(1863)までの標題を記録したものです。「山笠番付」には標題に加えて、人形として登場させる歴史上の人物の名前や飾りの名称などが記されており、標題が題材とした出来事や物語などを推測することができます。「山笠番付」の記載から標題に取り上げられる題材の傾向を調べた研究によれば、江戸時代前期から中期にかけては、平安時代末期に起こった源平合戦に関わる題材、とくに源義経(みなもとのよしつね)が活躍したエピソードが多く取り上げられ、江戸時代後期から幕末期にかけては、戦国時代の戦乱によって荒廃した博多の町の復興を行った豊臣秀吉(とよとみひでよし)やその家臣たちが関わった出来事が題材として用いられていることが指摘されています。今回の展示では、黒田(くろだ)家に残された博多祇園山笠図から源平合戦や源義経に関わる標題の山笠を紹介します。

時代とともに歩む山笠

 明治時代以降、山笠は幾度も存続の危機に直面しました。明治5年(1872)11月に福岡県が、文明開化に不都合、風俗にも良くないことを理由に松囃子(まつばやし)とともに山笠を禁止する旨を通達しました。この通達に対し、山笠の携わる人々は再三にわたって再開を願い出て、同8年に一度だけ実施の許可は出たものの、本格的に再開されたのは同16年になってからでした。

 山笠が再開された時、博多の街中には電信線が架けられており、その高さは以前と比べて低くせざるを得ませんでした。その後、各町の世話役の嘆願により電信線の位置は高くなりましたが、明治30年に電灯線が張り巡らされるようになったため、山笠の巡行が難しくなりました。翌31年には福岡県知事が、①山笠が時々電線を切ること、②半裸の男衆が町中を練り歩くこと、③暴飲暴食による不衛生を理由に山笠の中止を提議、福岡市議会議員の多数も賛成し問題化しましたが、新聞「九州日報(きゅうしゅうにっぽう)」の主筆・古島一雄(こじまかずお)の協力により、山笠の高さを低くする、法被を着用するなどの条件を付けることで決着をみました。

 この問題以降、従来通り背の高い山笠と町中を巡るため高さを低くした山笠に分けて立てられるようになりました。明治43年には路面電車が開通し架線が設置されたため、現在見られるような「飾り山」と「舁き山」2種類の山笠を立てる形式が定着しました。

 昭和20年(1945)6月19日、福岡大空襲により博多の街の3分の2が焼失したため、山笠も中断をせざるを得ませんでしたが、翌21年「第一次博多復興祭」で子供山笠が行なわれ、同23年には復活を果たしました。(髙山英朗)

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休館日

開館時間
9時30分〜17時30分
(入館は17時まで)
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休館日
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(月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
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