博物館髪型探訪
令和4年8月23日(火)~ 10月23日(日)
■様々な髪型と道具
結髪はいくつかの部位からなり、大きく分けると「前髪」「鬢(びん)(耳周りの髪)」「髱(たぼ/つと)(後頭部の髪)」「髷(まげ/わげ)(頭頂部に束ねた髪)」の四部位で構成されます。初期の結髪は各部を分けずに結っていましたが、江戸時代に部位ごとに形作る技術が確立すると、髷の形のみならず髱や鬢の形にも流行が現れました。例えば「勝山遊女図(かつやまゆうじょず)」には縦長の髱が、「市之江(いちのえ)」(図4・出品10)には跳ね上がった鶺鴒髱(せきれいたぼ)が描かれており、それぞれ17世紀後半と18世紀前半の流行を反映しています。その後、髱より鬢に趣向を凝らす髪型が増え、鬢の拡張とともに髱は縮小します。18世紀半ばに流行した「燈籠鬢(とうろうびん)」が「見立寒山拾得図(みたてかんざんじっとくず)」(図5・出品12)に描かれていますが、大きく横に張り出た鬢に対して髱はもはや目立ちません。結髪は髷の種類だけでなく、その位置や太さ、髱と鬢とのバランスによって印象が変わります。図5は島田髷ですが、他の島田髷を描いた作品と見比べるとそれがよく分かるはずです。
髪型の発達と共に、道具や飾りも多様化しました。江戸時代前半の絵には、櫛こそあれ簪類がほぼ描かれていませんが(出品14)、結髪文化が爛熟する江戸時代後期にかけて髪も飾りも巨大化します(出品15)。櫛や簪などの髪飾りが最も多様化するのは近代だと言われています。
■結髪図巻(けっぱつずかん)
江戸時代後期に描かれた「結髪図巻(けっぱつずかん)」(出品21)は、当時の女性の髪型図鑑のような作品です。6m弱にわたり描かれた結髪は32種33図。参考までに冒頭から結髪名を挙げてみましょう。
①銀杏髷(いちょうわげ)・②ひっこけ・③菊髷(きくわげ)・④稚児髷(ちごわげ)・⑤ 貝髷(ばいわげ)・⑥嶋田鴛鴦(しまだおしどり)・⑦鴛鴦髷(おしどりわげ)・⑧ 笄髷(こうがいわげ)・⑨勝山(かつやま)・⑩当世(とうせい)の嶋田(しまだ)・⑪嶋田(しまだ)・⑫ 後家髷(ごけわげ)・⑬ 兵庫髷(ひょうごわげ)・⑭ 梅幸髷(ばいこうわげ)・⑮片笄(かたこうがい)・⑯かせ髷(わげ)・⑰おそそ髷(わげ)・⑱よねみ髷(わげ)・⑲うつわん草(そう)・⑳とんとん髷(わげ)・㉑はりもどき・㉒こっぽり髷(わげ)・㉓吹髷(ふきわげ)・㉔奴髷(やっこわげ)・㉕かけおろし・㉖両輪(りょうわ)・㉗先笄(さきこうがい)・㉘片髷(かたわげ)・㉙丸輪(まるわ)・㉚梳髪(すきがみ)の貝髷(ばいわげ)・㉛間男(まおとこ)梳髪(すきがみ)・㉜梳髪(すきがみ)のもたせ
髷を「まげ」ではなく「わげ」と読むのは上かみ方がた方言です。本図は画風から京の祇園(ぎおん)周辺で活動した絵師・祇園井特(ぎおんせいとく)(1755頃~1827以降ヵ)の作と考えられ、ここに登場する髪型や名称は、関西あるいは花街ならではのものである可能性があります。例えば㉗先笄は京阪の商家の若妻が結った髪型で、「若妻図(わかづまず)」(出品1)にもみられます。また隠語を冠した⑰おそそ髷のほか、⑱よねみ髷、⑲うつわん草などは詳細不明の髪型で、今後の研究がまたれます。
19世紀はじめの爛熟期に最大化した女性の髷は、次第に全体の均整を重視し、幕末にかけて小ぶりに変化しました。
■おわりに
明治4年(1871)、近代化推進施策の一つとして男性の髷に対する断髪令(だんぱつれい)が出されると、女性の髪にも変化が起こります。明治18年に発足した「婦人束髪会(ふじんそくはつかい)」が、江戸時代を通じて発展してきた女性の結髪を不便・不潔・不経済と断じ、新時代にふさわしい近代的な髪型「束髪(そくはつ)」を提唱したのです。以降次々と新しい髪型が考案され、大正時代にかけて少しずつ普及します。明治45年頃に撮られた歌人柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん)の写真(出品25)は、新時代の束髪の風情を今に伝えています。
長らく黒髪は女性美の象徴とされてきましたが、今日では美の規範の幅が広がり、黒髪だけに美を認める人は稀でしょう。美貌と謳われた柳原白蓮は晩年見事な白髪で知られ、昭和31年(1956)には「福岡銀髪会(ぎんぱつかい)」結成式に「銀髪賛歌」を寄せています。同会は長寿の象徴である白髪の美を称えるべく、5年に一度ミスター&ミセス銀髪コンクールを開催した団体です。これに先立ち昭和25年に結成された「福岡光頭会(こうとうかい)」も、光頭すなわち髪がない頭を褒めたたえ自慢し合う団体で、ミスター光を選出するコンクール等を企画しては、洒落っ気に富む趣向で人気を博しました。
2つの団体の設立には戦後福岡の復興に尽力した田中諭吉(たなかゆきち)(1901~1970)が関わっています。諭吉自身が光頭にコンプレックスを抱いていた人物で、男女の別なく髪と美醜に根深い関係のあったことが窺えます。しかしこれを逆手にとった企画は見事で協力者も多く、銀髪会や光頭会の会員およびコンテスト審査員には、企業の社長や九大教授らのほか、博多人形師の小島与一(こじまよいち)、風俗画家の祝部至善(ほうりしぜん)、玄洋社の末永節(すえながみさお)、彫刻家の安永良徳(やすながよしのり)や冨永朝堂(とみながちょうどう)、当時の福岡市長奥村茂敏(おくむらしげとし)など、福博の歴史文化に重きをなした人々が名を連ねています。歴史の意外な一面かもしれません。
髪型が身分や年齢などと密接な関係にあった江戸時代とは異なり、今や髪は個人の自由です。しかし依然社会の不文律に不自由さを感じる場面は少なくありません。先人のユーモアと勇気が今日の道標になればと思います。(佐々木あきつ)