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No.586

企画展示室1

古代のお寺

令和5年1月17日(火)~3月12日(日)

寺の痕跡

 柏原M遺跡は「寺」の墨書土器が見つかっていますが、寺院跡とは考えられていません。ある遺跡を寺院跡だと推定するには、瓦が多量に出土すること、礎石や突き固められた基壇状の構造が確認できること、仏事にまつわるものや「寺」の文字が書かれた遺物が出てくることなどが挙げられます。これに周囲の遺跡や地形、古い時代の記録の内容を複合的に検討したうえで廃寺と判断します。

 市内にある廃寺のひとつ、三宅廃寺は発掘調査だけでなく、文献資料からも往時の姿を検討することができます。平安時代後期の11~12世紀、京都の醍醐寺(だいごじ)に関わる記録の中に、同寺の末社として「筑前国三宅寺」がみえます(『醍醐寺雑記』巻13ほか)。しかし、三宅廃寺自体存続したのは9世紀までだと発掘調査によってわかっています。寺が別の場所に建て替えられる事例はありますが、ここでの「三宅寺」は三宅廃寺の遺物とは直接の関係はなさそうです。

 9世紀以前の古代の記録では、延暦(えんりゃく)12(793)年8月22日に三宅連真継(みやけのむらじまつぐ)という人物が京で濫行(らんぎょう)を繰り返したために本籍地である筑前国那珂郡に送還された記事がみえます(『類聚国史(るいじゅうこくし)』巻87)。発掘資料と文献資料とをあわせて考えると、三宅廃寺の建立には奈良時代に那珂郡にいた三宅氏が関わっていたと考えることができそうです。

 また、江戸時代後期の地誌『筑前国続風土記拾遺』(那珂郡)では三宅村の項に「屯倉ノ址(みやけのあと)」として「礎石あまた残りしを近年皆取て神祠仏堂の用とし」たなどとあり、近年の発掘調査では確認されていない礎石建物の存在を示しています。「古瓦の破砕けたるもの田圃の中に乱散せり。其製は都府楼の旧址観世音寺などの古瓦にことなることなし」とし、編者であった国学者の青柳種信(あおやぎたねのぶ)は寺院ではなく役所跡だと考えていたようです。

 一方、高畑遺跡は、江戸時代に古代寺跡と言及されて以降、高畑廃寺と言われていました。近年になって、遺跡の性格が見直され、今では博多湾と大宰府をつなぐ官道沿いの駅家(うまや)のひとつ、久爾駅(くにえき)であった可能性が考えられています。

 冒頭にあげた『筑前国続風土記』の文はこう続きます。「此外にも廃寺多けれど、小にして表れざるは、ここに記さず」。いま私たちが生活している身近な場所には記録が途切れた古代の寺の痕跡がまだ眠っていることでしょう。(佐藤祐花)

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pressrelease

休館日

開館時間
9時30分〜17時30分
(入館は17時まで)
※2024年7月26日~8月25日の金・土・日・祝日と8月12日~15日は20時まで開館(入館は19時30分まで)
休館日
毎週月曜日
(月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
※2024年8月12日~15日は開館し、8月16日に休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで

Facata(博物館だより)

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