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No.595

企画展示室1

戦争とわたしたちのくらし32

令和5年5月30日(火)~7月9日(日)

学校と子ども

 昭和16年(1941)4月、小学校が新たに国民学校に変わりました。国民学校設置の目的は「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」(国民学校令第1条)こととされ、帝国を支える臣民を錬成する初等教育機関という位置づけを明確にしています。これまでの尋常小学校(修業年限6年)は国民学校初等科に、高等小学校(修業年限2年)が国民学校高等科に改称されました。学習教科も統合され、国民学校初等科は国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科(算数・理科)、体錬科(武道・体操)、芸能科(音楽・習字・図画・工作・裁縫)の4教科となります。国民学校高等科には、これに加え実業科(農業・工業・商業・水産)がありました。

 国民学校ではどのような教育が行われたのでしょうか。春吉国民学校(現 春吉小学校)を一例にみていきます。国民科・理数科の答案用紙には「レンセイヨウシ」「錬成用紙」と印刷されたものがあります。国民学校が国民の基礎的錬成をなすものであることからこの言葉が用いられたと思われます。学校から保護者に配付された連絡物には、「よい所を見つけて何とかしてお国の役に立つ子供に練り上げませう」と書かれており、子どもたちへの教育の目標が国家に有用な人材の育成にあったことを示しています。

 当時の子どもたちの絵は、戦争の時代の日常を描いていました。絵の主題は、家庭内での慰問袋づくり、街頭での千人針集め、神社参拝、国旗掲揚など「銃後の国民」として子どもたちにも協力が求められた行動でした。また、裏面に前線兵士への慰問文が書かれた慰問用の人形の絵なども描いています。

福岡大空襲と戦後の子どもたち

 昭和19年(1944)6月、米軍がサイパン島に上陸すると、日本本土への空襲の危険性が高まりました。政府は東京をはじめとして大都市の国民学校児童の疎開をすすめました。翌20年には軍港都市も疎開対象とされ、計画的に疎開がすすめられます。

写真(板付基地付近の子どもたち)
写真(板付基地付近の子どもたち)

 昭和20年6月19日、マリアナ諸島を出発した米軍の爆撃機B-29の編隊は、宮崎県付近から九州上陸に進入し、長崎県島原市付近で進路を北に変え、脊振山系を越えて午後11時過ぎに福岡市上空に達しました。米軍による焼夷弾の投下は翌日未明にかけて続き、福岡市の中心部の3割以上が焼失しました。局所的に被害を受けた地域もあり、詳細な被災地域は現在においても明らかではありません。福岡大空襲の後に疎開した児童もいました。

 昭和20年8月に日本がポツダム宣言を受諾し、9月2日に降伏文書に署名して戦争が終わりました。学校の授業は9月から再開されましたが、教科書から軍国主義的な記述が削除され、修身・国史・地理の教科書は回収されました。記述の削除には、上に墨を塗るという「墨塗り」がほどこされました。昭和22年4月からは新たな学校制度がはじまり、国民学校での教育は終わりました。

(野島義敬)
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