館蔵仏教美術展 ―信仰の美―
令和5年6月27日(火)~9月3日(日)
◇ 来世への祈り
平安時代後期、日本の貴族社会では末法(まっぽう)(仏法が廃(すた)れ、悟りを得ることができなくなる時代)に入ったという考え方が広がりました。そのため、人々は西方(さいほう)のかなたにあるとされる阿弥陀如来の極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)することを願い、往生につながる様々な仏事(ぶつじ)を催しました。
尊いお経を未来に残すために、銅や石の筒などに納めて地下に埋める埋経(まいきょう)もそのひとつです。佐賀県の脊振山(せふりさん)経塚(きょうづか)から出土したと推定される〈経筒(きょうづつ)〉(9)には康治(こうじ)元年(1142)の銘文が刻まれています。福岡市東区の筥崎宮の境内から出土した〈瓦経(がきょう)〉(10)も埋経遺物の一種で、四角形の粘土板に『仁王般若経(にんのうはんにゃぎょう)』を刻んで焼き固めたものです。福岡市西区金武(かなたけ)の薬師堂に伝来した〈滑石仏(かっせきぶつ)〉(11)は、柔らかい滑石に如来像や毘沙門天像を線刻したもので、うち1点には治承(じしょう)3年(1179)の年号が記されています。
◇ 中世・近世の仏像
福岡藩黒田家の菩提寺(ぼだいじ)であった崇福寺(そうふくじ)の〈獅子(しし)〉( 12 )は、同寺に安置される木造釈迦三尊像のうち文殊菩薩像の台座であったものです。三尊像は南北朝時代の正平(しょうへい)17年(1362)に院什(いんじゅう)という仏師が周防国(すおうのくに)(現・山口県)の永興寺(ようこうじ)の本尊として造ったものですが、記録から江戸時代初期に黒田氏が譲り受け、崇福寺に移されたことがわかります。
〈荼吉尼天騎狐像(だきにてんきこぞう)〉(13)と〈弁才天坐像(べんざいてんざぞう)〉(14)は、技巧的な細かさを見せる江戸時代の木彫像です。どちらも祈願成就の秘法の本尊とされる女神で、2躯セットで制作されたと思われます。荼吉尼天は稲荷神(いなりしん)と同体とされ、狐に乗って空を飛ぶ姿にあらわされています。
福岡市中央区の水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)に伝来した〈渡唐天神立像(ととうてんじんりゅうぞう)〉(15)は、台座の墨書から享保(きょうほう)元年(1716)に京都仏師の正慶(しょうけい)が太宰府戒壇院(かいだんいん)で「飛梅(とびうめ)の木」を用いて彫ったことがわかります。中国風の衣を着けて梅の枝を持ち、バッグを肩からかけた姿は、菅原道真(すがわらのみちざね)(天神様)が禅の修行のために中国(唐)に渡ったという伝説に基づいています。
福岡市博多区の幻住庵(げんじゅうあん)の〈梵鐘(ぼんしょう)〉(16)は、元禄(げんろく)2年(1689)に香椎宮(かしいぐう)(福岡市東区)の梵鐘として、博多鋳物師(いもじ)の磯野慶貞(いそのけいてい)らによって鋳造され、明治2年(1869)に幻住庵に移されたことが銘文からわかります。その形は朝鮮半島の梵鐘のデザインを取り入れた「和韓混交鐘(わかんこんこうしょう)」と呼ばれるもので、袈裟襷(けさだすき)と呼ばれる縦横の線がなく、龍頭(りゅうず)が単頭であるなどの特徴をもっています。
〈弘法大師坐像(こうぼうだいしざぞう)〉(17)は、像内の墨書から大正2年(1913)に福岡呉服町の仏師・高田又四郎(たかだまたしろう)良慶(りょうけい)が67歳の時に造ったことがわかります。又四郎は江戸時代の福岡仏師に連なる人物で、福岡出身の近代彫刻家・山崎朝雲(やまさきちょううん)の最初の師であったことでも知られています。その作品の特徴は、江戸時代以来の伝統と西洋の写実表現をみごとに融合した点にあり、本像のきりりとした顔にもそうした彼の作風がよくあらわれています。
(末吉武史)