奈良時代の博多
令和6年2月14日(水)~3月31日(日)
博多エリアの特徴と可能性
福岡市内で見つかる奈良時代の貨幣、和同開珎(わどうかいちん)はそのほとんどが博多遺跡群で発掘されていることは特筆すべきでしょう。加えて、博多では奈良・平安時代に日本で発行された他の皇朝十二銭も多くの種類が出土しています。ほかにも暗文土師器、銙など、都とのつながりを示す遺物が多く出土しており、奈良時代の博多エリアの特徴を示しています。興味深いことに筑紫館があった鴻臚館跡からはこれらの遺物はほとんど出土しません。
一方、筑紫館は博多エリアで出土が少ない瓦(かわら)が大量に出土し、奈良時代前半には瓦葺(ぶき)の建物があったことがわかります。西日本各地から集められた食料の荷札木簡(もっかん)、トイレ遺構、大陸由来の新羅土器などが出土することもあわせて、筑紫館が対外的な国家機関として機能した痕跡といえるでしょう。
大宰府から博多湾に出るために、筑紫館、博多エリアそれぞれにつながる直線道が設置されていたことがわかっています。筑紫館は日本と大陸と行き交う中継地点であり、博多大津において国際交流を担う場所でした。それでは、大宰府から博多の道はどのような人物や物が行き交っていたのでしょうか。
奈良時代には全国で官道が整備されています。九州内をめぐる西海道(さいかいどう)のうち、本州から大宰府をつなぐ官道には、平安時代の記録によると、美野駅という施設が設置されました。これは博多エリア付近にあったと考えられています。また、平安時代にみえる「鴻臚中嶋館」という記述をもとに、鴻臚館(筑紫館)の別館が博多にあったとする考えもあります。いずれも発掘調査による手がかりは今のところありませんが、注意しておきたい古代の施設です。
おわりに
奈良時代、博多エリアは大宰府の外港として欠かせない役割を持った場所であったようです。これは多くの出土資料によって推定されますが、具体的な性格を知るには手がかりが足りません。
当時、博多エリアに出入りをする人々は、歴史上に名を残すような人物ではなかったのかもしれません。しかし、発掘調査からは官人の生活や工房の存在を確かにうかがうことができ、記録なき地域の中でも特別な場所であったと考えられるのです。
(佐藤祐花)