江戸の園芸
令和6年2月14日(水)~4月7日(日)
植物を知る
中国では古来より、薬に用いることのできる自然物を研究する学問が発展しました。この学問を本草学(ほんぞうがく)と言い、植物を中心に動物や鉱物の生態や産地などの研究が行われました。日本では古代以来、中国から伝えられた書物をもとに本草学の研究が進められてきましたが、江戸時代に入ると全盛を迎え、日本独自の進展を見せるようになりました。なかでも福岡藩の儒学者である貝原益軒が宝永(ほうえい)6年(1709)に刊行した『大和本草(やまとほんぞう)』【資料9】は、その代表的な書物として知られています。
『大和本草』には、中国の書物に掲載されている品種だけでなく日本固有の品種も収め、その名称や形状、効用に加え栽培法も記されています。益軒は、各地へ調査に赴くだけでなく、自宅の庭で花や野菜の栽培もしていました。その経験から肥料の与え方や植え付けの時期などの栽培方法を記した『諸菜譜(しょさいふ)』【資料10】や『花譜(かふ)』【資料11】も著わしています。
江戸時代後期になると本草学は西洋学問の影響を受け、博物学(はくぶつがく)的な色彩を強めていきます。博物学は、自然界に存在する物について、種類や性質などの情報を集めて記録し、整理・分類する学問ですが、その研究のため植物などを詳細に描いた図譜が多く制作されました。
「本草正画譜(ほんぞうせいがふ)」【資料14】は、博多呉服町下(ごふくまちしも)(現福岡市博多区)の薬種商で本草学者・内海蘭渓(うつみらんけい)がまとめた植物図譜です。薬草や薬木類に加え、花木や草花なども詳細に描かれており、当時を彩った植物の一端をうかがい知れます。
植物を育てる
園芸の一番の魅力は、自ら植物を育て、花が咲いたり、実を付けたりなどする成長過程を楽しむことにあると言って良いでしょう。
貝原益軒が編さんした「筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)」【資料15・16】には、牡丹や菊、梅などが福岡城下の藩士の屋敷などで栽培されていることや、御笠郡武蔵村(みかさぐんむさしむら)(現筑紫野市)に住む次郎左衛門(じろうざえもん)という人物が、屋敷に庭園をつくり数百株の花木を植え、稀少な花を集めていたことなどが紹介されています。
また、福岡藩11代藩主の黒田長溥は西洋学問を好んだ殿様として知られますが、チューリップやヒヤシンスなどを描いた「本草図(ほんぞうず)」【資料22】を残しています。江戸時代には海外から新しい植物が数多くもたらされましたが、長溥が描いた植物は幕末期から明治時代初頭にかけて輸入されたもので、描写や記述内容から、一部は長溥が栽培していたことが推測されます。
これらの資料からは、植物を育て楽しむ園芸文化が武士層をはじめとして庶民にまで広く普及していた様子がうかがえます。
(髙山英朗)