石里洞秀(いしざととうしゅう)~江戸の福岡藩御用絵師(ごようえし)~
令和6年8月6日(火)~ 10月6日(日)
■洞秀周辺の人々
江戸を拠点とした洞秀は、福岡藩主黒田家の御用のみならず、仙台藩主、多度津(たどつ)藩主、社寺などの絵画制作をこなしました。また同じ福岡藩御用絵師の尾形洞谷美淵が江戸詰(えどづめ)を命じられるたびに交流していたらしく、洞谷が洞秀の絵を写した画稿が多く残ります。相馬藩の御用窯でも焼物の下絵に洞秀の絵が用いられていますし、洞秀に学んだ者は土佐藩をはじめ全国に広がりました。さらに洞秀自身が福岡へ下向したことがあるのか、仙厓義梵(せんがいぎぼん)をはじめとする福岡在地の僧侶や儒者が着賛した作例もあります。《鍬鋤図》(出品16)に着賛した湛元等夷(たんげんとうい)は、仙厓の後継者で安国山聖福寺の第124代住職です。ここまでに挙げた御用絵師らしい画作と比べると《色子図》(出品17)は異質ですが、作者である渓斎英泉(けいさいえいせん)は、洞秀が一緒に版本の挿画を手掛けたことのある浮世絵師です。幅広い人脈の影響あってか、洞秀は風俗画に長け、狩野派の中では比較的早く、真景図といって実際の景色に取材した風景を描いたことが知られます。
これまで洞秀がどんな人物と交流し、どのように受容されたかは、主に近世を中心に語られてきました。《高津皇居図(こうづこうきょず)》(出品22)は、国見(くにみ)をした仁徳(にんとく)天皇が民の窮乏を知り3年間租税(そぜい)を廃止したという伝説を描くものです。実はこの旧蔵者が、近代の書家で玄洋社社員の水野疎梅(みずのそばい)(1864-1921)だとわかりました。また幕末の福岡藩御用絵師・尾形洞眠(とうみん)(1839-1895)による画稿(参考画像7)もみつかりました。洞秀の絵は福岡以外に伝わるものも多いのですが、本図は洞秀が没したあと、近代以降も福岡で愛蔵された一例といえます。
ほかにも近年当館が収集したいくつかの洞秀作品には、福岡藩御用絵師尾形家に残る画稿類との関連が見つかりました(出品19と参考画像1など)。江戸界隈で幅広い制作活動を行うだけでなく、中央画壇から絵を地方に伝えたという点も、江戸詰の面目躍如といえるでしょう。
今も不確かなのは、洞秀が実際に福岡の地を踏んだのかどうかです。これは絵と賛の制作時期や洞秀の受容の問題に関わるため、今後の解明がまたれます。初代洞秀の作例も見つかるといいですね。
■おわりに
今回の調査によっていくつかの新知見が得られたと共に、真景図や風俗画題の収集が手薄であるなど、コレクションの偏りも見つかりました。引き続き当館は地域ゆかりの文化財と向き合い、資料情報を蓄積して皆さまにご活用いただけるよう努めたいと思います。
(佐々木あきつ)