平成30年4月10日(火)~6月10日(日)
写真3 海士の道具
海にいきる人びと
島の周辺は好漁場で、古くより沿岸型の網漁(あみりょう)、釣漁(つりりょう)、魚介や海藻の採捕などが営まれてきました。筑豊水産組合が編纂した『筑豊沿海志(ちくほうえんかいし)』(大正六・一九一七年)によると、元禄(げんろく)年間にはじまったタイやカナギ(イカナゴ)の網漁は、明治中期以降、ほかの浦の指導者に漁法を学んだり、改良漁具を導入したことによって、漁獲量が大幅に増加したと記されています。その様子は、「県下に於て模範漁村たるのみならず、全国優良漁村の内へ数へ」られたといいます。 大正時代は、イワシ揚繰網(あぐりあみ)、底刺網(そこさしあみ)、カナギ房丈網(ぼうじょうあみ)などが操業されていましたが、昭和に入ると次第に一本釣、延縄(はえなわ)へと主軸がうつっていきました。戦後は、一本釣が主要な漁業となり、従事者の増加とともに、漁場も沿岸から長崎県の五島地方あたりまで広がりました。同時に、エビ漕網(こぎあみ)やイワシ揚繰網、二双吾智網(にそうごちあみ)など沿岸型の漁も幅広く操業されました。そのいっぽうで、戦後の漁場開放によって大型漁船が近海を荒し魚が寄りつかなくなったことで危機に陥りますが、昭和六十年代の漁業技術の開発により、フグ延縄やイカの流し釣、採貝(さいかい)の水揚げが増加したことで再び伸びを示すようになっていきました。
また、岩礁(がんしょう)が多く豊富な磯資源にめぐまれた島では、海士(あま)による潜水漁が営まれ、さまざまな漁具を用いてウニやサザエ、アワビなどがとられました。ワカメは、乾燥させて博多に卸していた時期もありましたが、現在では、塩蔵(えんぞう)ワカメが特産品として加工販売されています。
自然の変化が生活に直結する環境にいきる人びとは、生命はもとよりくらしの安寧を神仏に願ってきました。正月二日の「乗(の)り初(ぞ)め」をはじめ、十月の若宮様グンチなど島内の神々に大漁祈願や航海安全を祈ります。
島外で行う大きな祈願のひとつに八月六、七日に行われる志賀島の志賀海(しかうみ)神社の七夕祭があります。玄界灘一帯の漁師たちが参拝するもので、玄界島からも多くの島民が家族総出で訪れます。とくに一年のうちに新造した船は大漁旗などを飾り付け、この先の航海安全を祈願してお祓いを受けます。このとき、海上安全の木札に加え、「志賀茶(しかちゃ)」と「事無柴(ことなきしば)」(玄界島では「ことなししば」と読む)を求めます。神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓から帰還した際に船の舵の柄を植えたところ芽吹いて茂ったと伝承される事無柴は、枯れても葉が落ちないため、身につけると災難から逃れ無事に家に戻れると信じられており、島外へ出る際に葉をお守りとして持参したり、船に常備する風習があります。
写真4 フゴ(野間吉夫撮影)
雁木段(がんぎだん)と島のくらし
かつての集落は島の南麓に広がっており、家と家の間は狭く、細い道と「雁木段」とよばれる石段でつながっていました。密度の高い集落構造は、気軽に隣家の洗濯物を取り込んだり、家の普請や解体時には島民総出で協力するなど濃密な近所付き合いをうみだします。こうした雁木段を中心としたくらしの諸相は、島の古老や昭和三十年代に島を訪れた野間吉夫(のまよしお)が著した『玄海の島々』を通してうかがい知ることができます。雁木段を上ると山腹から山頂付近には畑が広がっており、麦や芋、野菜などがつくられていました。こうした物の運搬には背負梯子(せおいばしご)「オイ」や藁籠(わらかご)「フゴ」が使われていました。また、家屋が密集していることから、火事の際にひどくならないよう瓦葺き屋根にしたり、夜回りが行われるなど、日常から防火に努めていたようです。
写真5 共同井戸(野間吉夫撮影)
島のくらしに欠かせない水の確保は、昭和二十九(一九五四)年に簡易水道が整備されるまで、天水や井戸に頼っていました。島には五ヵ所の共同井戸が掘られ、そこは水を汲むだけでなく、洗濯が行われる場であり、女性たちの情報収集の場でもありました。
長い歴史のなかで、培われてきた強固な人間関係は、福岡県西方沖地震の際に復興事業にかかる意思決定の場で大きく作用し、震災からわずか三年での帰島につながったといわれています。いっぽう、車道が整備され、宅地構造が刷新されたことで、人びとは、従来の基盤をいかしながら、あらたな家や隣人との結びつきを再構築しつつあります。
(河口綾香)
本展は、平成二十八年度博多湾岸《金印ロード》資源活用プロジェクトおよび平成二十九年度博多湾岸《金印ロード》ツーリズム・プロジェクトの成果を活用したものです。