平成30年6月5日(火)~8月5日(日)
はじめに
写真1 旧常設展示室の様子
博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)は、七月一日から十五日まで行われる櫛田(くしだ)神社の祇園例大祭への奉納行事です。福岡市博物館では、開館以来、この時期にあわせて「博多祇園山笠展」を開催してきました。
本展では、かつて山笠で着用されていた土居流(どいながれ)、洲崎(すさき)流、東町(ひがしまち)流、呉服町(ごふくまち)流、魚町(うおのまち)流、石堂(いしどう)流、西町(にしまち)流の山笠法被を一堂に公開します。法被の美しい図柄もさることながら、役割や精神性についても知っていただく機会になれば幸いです。
山笠を支える博多の組織
博多祇園山笠を支えてきたのは、流(ながれ)とよばれる町の集合体です。これは九州を平定した豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により、戦乱で荒廃した博多を復興させるため大規模な区画整理(「太閤町割<たいこうまちわり>」)を行ったことに由来します。流は、通りに面して向きあう家々が結びついた町が、数か町または十数か町集まって構成されています。
江戸時代、石堂川(御笠川<みかさがわ>)と那珂川(なかがわ)を東西の境とする博多の町には、十流九十八町に寺中町・柳町を加えた百町がありました。そのうち南北の縦町筋にある東町流、呉服町流、西町流、土居流、東西を貫く横町筋の魚町流(福神(ふくじん)流) ・石堂流(恵比須<えべす>流)と西方の一画にある洲崎流(大黒<だいこく>流)をあわせた七流七十三町から、六つの流が山笠を奉納し、残る一流が能当番を務めることになっており、町組の組織と祭礼が深く結びついたくらしが根付いていました。
昭和四十一年に実施された町界町名整理により住居表示が街区方式で再整備されたことで、博多では古い町名が数多く失われ、受け継がれてきた流の在り方は崩壊の危機に陥ります。何度も協議を重ね、紆余曲折を経て流は、山笠や松囃子などの祭礼組織として存続しましたが、その中身は、旧町の組織を維持した流、新旧の町が共存する流、すべて新しい町の組織になった流など、流ごとに異なる道を歩みました。本展で紹介する明治二十五年の流と町は、旧町にもとづいたものです(図1)。