平成30年10月16日(火)~12月9日(日)
「国」の外交・交易を支えた海民
各種の石錘(西新町遺跡)
鉄の釣針(三苫永浦遺跡)
貝の腕輪の着装状況
(西新町遺跡甕棺墓)
3世紀頃のことを記した『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)には「奴国(なこく)」や「伊都国(いとこく)」などの有力な国が登場しますが、それぞれ福岡平野と糸島平野に比定されていて、弥生時代中期後半(紀元前1世紀)頃には成立していたと考えられます。大陸との外交や交易を通じて日本列島の中でも先進的な国が形成されました。
銅剣(今宿遺跡)
この時代には前述の遺跡のほかにも海辺の遺跡が増加します。西新町(にしじんまち)遺跡では集落と墓地が形成され、石錘や、鉄製釣針(つりばり)などの漁労具が多く出土しています。斧や工具などの道具とともに漁労具も鉄器化が進んでいます。さらに、大陸からもたらされた鉄斧や鉄素材、ガラス玉なども出土しており、交易の窓口であったことがうかがえます。
その墓地では南海産のゴホウラ貝を加工した腕輪を身に付けた有力者の埋葬がみつかっています。砂丘上の弥生時代墓地遺跡で、副葬品がともなう埋葬事例は多くありませんが、今宿遺跡では銅剣と翡翠勾玉が副葬された有力者の墓がみつかっています。
博多湾沿岸で活躍していた海民集団の航海能力や情報網は、奴国や伊都国の対外交流を支えていたと考えられます。
鉄製長剣
(博多遺跡群)
長さ47cm
弥生時代後期(1〜3世紀)を中心とする唐原(とうのはる)遺跡は海産物の加工処理遺構とみられる炉址(ろし)もみつかっている博多湾沿岸東部の集落遺跡です。山陰から丹後(たんご)地方の土器が多く出土しており、日本海を通じてやって来た人々を受け入れていたようです。この時代、大陸からの文物が博多湾沿岸に集まっていましたが、それ を求めて列島各地からも人々の往来があったのです。逆に北部九州から「旅する土器」の存在も、東は新潟県まで確認されています。
海辺の集落で、農耕に関わる道具は乏しいものの、工具や漁労具、武器などには新鋭の金属器が使用されていて、その普及と流通を物語っています。博多遺跡群でみつかっている弥生時代終末期の墓には希少な鉄製武器である長剣(ちょうけん)が副葬されていました。
続く古墳時代も博多湾沿岸は、大陸から日本列島への人々や文物と、鉄器生産等の新しい技術を受け入れる窓口や出発点として重要な役割を担いますが、その基盤となったのは弥生時代からの海民集団の活動でした。 (森本幹彦)