農耕図
令和2年3月21日(土)~5月17日(日)
◆俵(たわら)かさね 上・下巻(出品2)
次にご紹介するのは、詞書(ことばがき)と絵が各巻6セットずつ交互に展開する絵巻です。詞書と絵は対応しており、第1段が序章と正月にはじまり、第12段の12月まで月ごとに展開します。これは月次絵(つきなみえ)といって、年中行事や風物を12か月に分けて描いた平安時代以来の形式とよく似ています。さらに詞書を見てみると、序章で「わか大君(おおきみ)(天皇)」が正しくまつりごとを行えば「ゆたかにおさまる世の中」になると説き、かつて天皇が政治を主導していた延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治世(10世紀の醍醐・村上天皇の時代)を理想として例示するといった特徴があることから、武家ではなく公家が注文主と推察されます。また漢字が少なく平易である点から、幼い鑑賞者の存在も窺われます。
中国の耕織図(こうしょくず)は鑑戒画(かんかいが)といって、皇帝が民の労苦を知り自らを戒めて善政を敷くための絵でした。徳による政治を説く儒教思想の産物です。農耕の図の鑑戒的な側面は日本にも輸入され、儒教を政治の拠り所とした近世の武家社会で、子弟教育に活用されたと言われています。先にご紹介した「農耕図鑑」では、下巻の冒頭に収穫の段が描かれています。一見クライマックスが早すぎますが、後に稲束を作る段、運ぶ段、脱穀・籾摺(もみすり)・精米の段と続くことによって、秋にめでたく収穫を迎えても、お米を食べるにはまだ画巻(がかん)一巻分の工程が必要なのだとよくわかります。農耕図は帝王学の一環でもあったのです。
俵かさねは、まだ難しい漢字の読めない公家の少年に向けて制作されたと考えられます。このことは、武家社会に広まった儒教的鑑戒画が、大和絵の伝統的な形式をかりて公家社会でも受け入れられたことを示します。先行研究によれば、第1段の詞書に登場する「郡奉行(こおりぶぎょう)・代官・給人(きゅうにん)・庄屋」といった名称が、室町末期から近世初頭の社会構造を反映していることから、その頃には本作の祖本が成立していたと考えられています。
なお本作自体は、京都の絵師・鶴沢探鯨(つるさわたんげい)(1687‐1769)の作とする説があり、画風からも江戸時代中期の作と思われます。
今回は、資料修理の際にでた旧表具類(出品3)を併せて展示します。旧軸木(図3)には、「俵重」「中村」などと重ね書きされています(図4)。中村は、近代の表具師の名かもしれません。
◆耕作図屏風(出品4)
次にご紹介する屏風も、江戸時代中期頃の作品です。作者不明ですが、御用絵師というより町絵師の作でしょう。いきなり「収穫」の段からはじまり、「脱穀」「籾摺」「俵詰め」「宴会準備」「小宴」と続きます。全体的に「農事労働」を描こうとする意識が希薄で、むしろ「豊作」を主題とするような印象を受けます。収穫前の流れを描いた1隻が欠けている可能性もありますが、あったとしても、小宴を描写する紙幅の割合が比較的大きいことに変わりはありません。
こうした絵の性格も、和様化の特徴の1つです。中国の耕織図が実用書として淡々と描かれたのに対して、日本の作例は装飾性や吉祥性を帯びてゆくとされます。例えば四季耕作図と呼ばれる作品群の多くは、耕織図の体系的な描写を学びつつも、そこにはなかった四季の叙情性を付与しています。耕作図屏風をはじめとする農耕図は、豊作を予祝する「めでたい」絵として、本来とは異なる目的でも享受されていたのです。
◆おわりに
耕織図やそれに類する農書の類は、伝来直後は権力者の周辺で秘蔵されていましたが、出版文化の隆盛に伴って、次第に多くの人の手元で参照できるようになりました。例えば元福岡藩士である農学者・宮崎安貞(みやざきやすさだ)の著した『農業全書』(1697)は日本最古の農書にしてベストセラーとなり、のちの農耕図に影響を与えました。『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』(1713)、『絵本通宝志(えほんつうぼうし)』(1729)のほか、鹿児島藩の編纂した『成形図説(せいけいずせつ)』(1804・出品6)や福岡藩の儒学者・貝原益軒(かいばらえきけん)の原著『女大学宝箱(おんなだいがくたからばこ)』(1814)などの中にも農耕図が描かれています。農耕というモチーフは、労働の辛苦ではなくおめでたさを纏うことによって、人々の身につける工芸品にまで及んでおり(図5)、身分の上下に関わらず、実用・美的鑑賞の両面で人々に親しまれていたことがよくわかります。
もしもあなたが絵を買うとしたら?
美しく、目出度く、さらに実用的でもある農耕図の魅力を、本展でお伝えできていれば幸いです。(佐々木あきつ)