天下取りと黒田孝高・長政
令和3年7月6日(火)~9月5日(日)
三 長政、家康に関ヶ原合戦で勝利をもたらす
朝鮮出兵の最中、慶長3年(1598)に秀吉が没すると、政局は再び流動化します。家康は大老(たいろう)の筆頭として秀吉の遺児(いじ)秀頼(ひでより)を支えますが、石田三成(いしだみつなり)等の奉行衆(ぶぎょうしゅう)と対立を深めました。慶長5年(1600)6月、家康は会津(あいづ)(福島県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)を討つため上方(かみがた)を離れます。出陣の直前、家康は姪(めい)の栄姫(えいひめ)(保科正直(ほしなまさなお)娘)を養女として長政に嫁(とつ)がせ、黒田家と強い絆(きずな)を結びました。関東に在陣中の家康・長政等諸将は三成が上方において挙兵した報せを受けると、会津攻めを中止し、反転西上し三成との決戦を選択します。この時、家康は多くの軍勢が西上の途につくなか長政を呼び戻し、終夜密談(みつだん)を行いました。家康の懸念(けねん)は、秀吉子飼(こがい)の福島正則(ふくしままさのり)が三成方に転じるのではないか、敵が美濃(みの)(岐阜県)方面まで出陣する際、正則は居城の清須城(きよすじょう)(愛知県)を提供してくれるであろうか、という不安でした。正則ら豊臣恩顧(おんこ)の大名(だいみょう)への警戒を長政に託し、この時、家康は南蛮鉢歯朶前立兜(なんばんばちしだまえだてかぶと)(図1)と梵字采配(ぼんじさいはい)・鞍馬(くらうま)を長政に贈りました。これらは家康の長政に対する信頼の大きさを示すものです。長政は家康の期待に見事に応(こた)え、関ヶ原合戦では三成隊を撃破し戦功を立てるだけでなく、合戦前には、西軍の大将に担がれた毛利輝元(てるもと)の従弟吉川広家(きっかわひろいえ)に通じて毛利軍の動きを封じ、名島城(なじまじょう)(福岡市東区)の小早川秀秋(こばやかわひであき)には東軍への寝返りを促す等、調略でも活躍しました。合戦終了後には、正則とともに毛利軍を大坂城(おおさかじょう)から退去させ、大坂城を接収します。勝利を手にした家康は、3年後、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、江戸に幕府を開きました。
長政はこれらの活躍により筑前国(ちくぜんのくに)(福岡県)のほぼ一国を与えられ、江戸(えど)時代260年余続いた福岡藩(ふくおかはん)の初代藩主となりました。 (堀本一繁)