唐団扇(とううちわ)がつなぐもの
令和3年8月31日(火)~11月14日(日)
ゆかりも古き呉門の
西に栄ゆく伊達の町
事ある時は角つなぎ
常は睦びの唐うちわ
これは、唐人町(とうじんまち)(現中央区唐人町)の石工(いしく)・岸田文吉が著した『唐人町中年会誌』(1932年)に収められた今様で、唐人町に屋敷を構える福岡藩の書道方で今様作者でもあった二川相近(ふたがわすけちか)の玄孫・瀧三が詠んだものです。
歌の舞台である唐人町の町名の由来は、「家数百五十八軒、其の始高麗人住せり」(「筑前国続風土記」)、「往古は唐船の泊りしより此如名あるよし、古老の伝なり」(「筑前国続風土記拾遺」)などと伝えられています。江戸時代の福岡城下絵図にみる唐人町は、東西を貫く唐津街道沿いに町屋が並び、その北側は武家屋敷が、武家屋敷の北側と西側には寺院が集中しており、藩士と町人がともに暮らす町だったことが分かります。
さて、この町には江戸時代から「角つなぎ」と「唐団扇(とううちわ)」(通称トウセン・写真1)いう2つの町の印(しるし)が伝わっています。なかでも「トウセン」は、今日に至るまで町の運営を支えてきた様々な組織がその印として用いてきました。
本展では、唐人町中年会が所蔵する江戸時代から現在までの「トウセン」が描かれた諸道具を通して、その印の使われ方とともに町の運営を支えてきた人びとの姿について紹介します。
「角つなぎ」と「唐団扇」
唐人町に伝わる2つの印は、江戸時代につくられた自治組織である火消組と深く関係しています。『唐人町中年会誌』には、福岡城内で大火があった折、唐人町が一番乗りで駆けつけて目覚ましい活躍をした。その後も城内の非常時に馳せ参じて活躍を続け、その勲功(くんこう)により藩主から火災の時に城内に入る許可を与えられた。その際に「城内混雑の際にも一見して唐人町と判るよう半纏(はんてん)の背中に〇か□かの印を付けよ。また、標識として風除団扇をかざして来い」との命が下りた。町内評議の結果、〇印では黒田家の家紋と紛れるとして、半纏には□印、標識は町名にちなんで唐団扇にした、とその由来が記されています。
この伝承で語られる□印は、後に町の人びとが着用する半纏の文様として用いられるようになります。かつて□を斜めにつないだ文様は半纏の腰部だけにあしらっていましたが、次第に全面に入れられるようになり、「角つなぎ法被」(写真2)と呼ばれるようになりました。