奈良時代の博多
令和6年2月14日(水)~3月31日(日)
はじめに
幹線道路や新幹線、地下鉄が走り、ビルが建ち並ぶ大都市博多。博多遺跡群といわれるJR博多駅北西の約1.5㎞×0.8㎞四方での発掘調査の成果では、とくに平安時代から安土桃山時代の出土資料が注目されます。それらは交易や都市生活に関わる「福岡県博多遺跡群出土品」として平成29(2017)年に国の重要文化財に指定されました。一方でそれよりも前の時代、奈良時代(710―794)にかかる調査でも、博多湾岸の古代を語るうえで見逃せないものが出土しています。「福岡県博多遺跡群出土品」として目を引く資料群よりも少し前の時代、奈良時代の博多の出土資料にもご注目ください。
「博多」の初見
「博多」という地名の初出は、奈良時代のことが書かれた歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平宝字三(759)年の記事になります。大宰府から朝廷に提出された防衛の不安を述べた4ヶ条の1つに、「博多大津」などの要害の地に、備えるべき船が配置できていないとあるものです。他にも奈良時代の記録には、朝鮮半島からの新羅使(しらぎし)の到着地として、また遣唐使船が海を渡れず引き返した場所として博多の津がみられます。この時期の「博多」は、とくに対外関係の船が停泊する「津」として認識されていたようです。そうであると、この博多津は博多遺跡群が広がる「博多エリア」を指すとは限りません。
大宰府の官人が要害の地とした博多大津には、外交施設であった筑紫館(つくしのむろつみ)(のちの鴻臚館(こうろかん))がありました。ここで外国使節をもてなした記録も残ります。筑紫館は博多エリアから西に入海ひとつ隔てた場所にありました。博多遺跡群は国際色豊かな国家直轄の施設の近くに位置していたことになります(図2)。
奈良時代の博多エリア
博多遺跡群は東西方向に並んだ大小3つの砂丘列上にあります。奈良時代には、この砂丘列は北は海、西は入江、南は川によって画され、地理的に独立した一角になっていました。埋め立てが進み、元の地形は見えにくくなっていますが、現在の博多駅から海まで真っすぐ延びる大博(たいはく)通り付近に、砂丘は形成されました。内陸側には、2つの砂丘がつらなり、一番北側に位置する3つ目の砂丘は、鎌倉時代後期には「息浜(おきのはま)」とよばれますが、奈良時代はまだ独立した小さな砂洲状で生活に適した環境ではありませんでした(図3)。
内陸側の2つの砂丘の全域では、井戸跡や土師器、須恵器をはじめとする奈良時代の痕跡が出土します。とくに現在の祇園町(ぎおんまち)交差点を中心とする砂丘の中央部からは、所々で真っすぐな溝が見つかり、奈良時代に約100m四方の範囲が区画されていたことがわかりました。区画内には掘立柱建物跡もみられ、一町四方の官衙(かんが)(役所)域であったと考えられています。ただ後世の掘り込みによって良好な遺構は少なく、文献資料の手がかりもほとんどないため、官衙の全容はつかめていません。
役所と暮らしの痕跡
博多エリアに官衙施設の存在を裏付ける遺物は、役人の服の腰帯に用いられる銙(か)(金具)、硯(すずり)、権(けん)(棹秤(さおばかり)の錘(おもり))、焼塩土器、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)などがあります。役人が仕事をする際や国内の交易に際して使用されたものです。文字や記号が書かれた墨書土器も多く見つかっています。中でも「長官」「長」「佐」「官」といった文字は役所や役職に関連することが考えられます(図1)。畿内地域の特徴を持つ暗文(あんもん)土師器(器の内側に光沢のある文様が入る土器)が数多く出土することも都と博多エリアとのつながりを示唆します。
また博多遺跡群では、奈良時代の人々の活動がうかがえる発見がありました。鍛冶炉(かじろ)や、銅の付着した坩堝(るつぼ)、また銙の一種である丸鞆(まるとも)の鋳型(いがた)などが出土しており、金属を加工する工房などがあったことがわかります(図4)。また、鍛冶炉からは数体分の馬と牛の骨が出土し、鍛冶に関連して祭祀が行われたと考えられています。
官衙域外の数ヶ所で出土している土師器の甕(かめ)に須恵器の蓋(ふた)を被せたものも祈りの様子を示すものでしょう(図5)。このような形状は都でも官人の邸宅に該当するような区画から見つかり、地鎮具の性格があったと考えられています。平安時代にかかる可能性はあるものの身体を横に向け屈葬された状態の土壙墓(どこうぼ)も発見されました。平安時代以降に比べ出土例は少ないですが、奈良時代には砂丘上に確かに人々が暮らしていたようです。