展示・企画展示室

No.608

企画展示室1

黒田家名宝展示ふたたび ―書跡・絵画・文芸編―

令和6年4月2日(火)~6月2日(日)

黒田継高夫人・圭光院の和歌と書

 継高の息子重政(しげまさ)は藩主に就つく前に死去し、一橋(ひとつばし)家から治之(はるゆき)(1752~81)が養子に迎えられました。夫・継高死後に圭光院(けいこういん)となった幸ですが、母としては治之に福岡藩主として如水・長政を敬(うやま)うよう教育し、家存続のため血脈(けつみゃく)を守るよう紙で願いました。家老(かろう)たちへは継高の意志として領内に生子(うぶこ)(赤子)養育を助ける制度を作るよう遺言しました。

黒田治高の書と肖像

 8代藩主治高(はるたか)(1754~82)は四国の大名京極(きょうごく)家から養子となりましたが、藩主となってわずか半年で死去しました。後の明治時代に、京極家時代の治高に仕えた医家の子孫が、彼の書跡を黒田家に寄贈しました。雪は豊年になる贈り物(来年も水が豊富で豊年となる)、という意味の書は、幼いころから領民の生活に関心があったことがうかがえます。治高が江戸屋敷に夜中に非常招集(ひじょうしょうしゅう)をかけた際に、集まるのを渋(しぶ)った藩士たちを諭した逸話(いつわ)も記されています。

博多湾の風景、志賀島の金印発見

 9代藩主斉隆(なりたか)(1777~95)は11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)の弟で、一橋家から養子に入った人物です。学問を好み、成長し筑前に帰ると何度も領内を巡検(じゅんけん)しました。現在、彼が藩主だった頃の福岡城下が描かれた図巻(ずかん)が残されています。さて、天明(てんめい)4(1784)年に志賀島(しかのしま)で金印(きんいん)が発見されています。斉隆の時代は、修猷館(しゅうゆうかん)・甘棠館(かんとうかん)の二つの藩校ができ、金印発見は、学問隆盛の時代の幕明けの象徴としても、記憶されました。

黒田斉清と本草正画譜

 10代藩主斉清(なりきよ)(1795~1851)は、父・斉隆の死により、僅わずか1歳で藩主となり、幼いころ江戸に移り成長しました。早くから蘭学(らんがく)など西洋の学問を好み、とくに植物学や鳥類学を専門とし、長崎警備のため長崎に出向いた時に、オランダ出島商館(でじましょうかん)の医師シーボルトと学術問答をかわし、その博学(はくがく)ぶりに驚かれています。斉清は薩摩(さつま)藩主島津重豪(しまづしげひで)とも学問の上で交流があり、その縁で重豪の子・長溥(ながひろ)(1811~87)を養子に迎え、家督を天保(てんぽう)5(1834)年に譲りました。

黒田長溥の書画と本草図

 長溥も蘭学などを好み、幕末から明治時代初めの自作のスケッチ「本草図(ほんぞうず)」には、チューリップなど西洋風の球根類の他,ジャガイモ、豆まめ類など欧米から渡来した植物が描かれています。一方で竹図など水墨画に優れ、明治(めいじ)2(1869)年の隠居後も、漢詩や書跡の作品を残しています。

黒田長知と夫人の和歌

 長溥は養子に迎えた12代長知(ながとも)(1838~1902)とともに、幕末・維新(いしん)期の全国的政治や藩政に活躍することとなります。長知は和歌を好み、養父(ようふ)長溥とともに、幕末に亡くなった支藩秋月(あきづき)藩主黒田長元(ながもと)を悼(しの)んだ作品が残っています。長知夫人も和歌を好み和歌や古典風文芸を残しています。

(又野誠)
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休館日

開館時間
9時30分〜17時30分
(入館は17時まで)
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休館日
毎週月曜日
(月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
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