ふくおかのはにわ
令和6年4月23日(火)~10月6日(日)
Ⅲ ふくおかの円筒埴輪と朝顔形埴輪
円筒埴輪は、朝顔形埴輪とともに、古墳の頂上や周囲に列をなして並べられました。そのため、5世紀以降、埴輪が普及し古墳が大型化すると、古墳をつくるたびに、大量の埴輪が必要となりました。これに応じて、畿内では、効率的な埴輪作りが追及されました。その結果、徐々に円筒埴輪の透かし穴は円形に統一され、突帯のせり出しが低くなり、つくりが粗くなっていきました。また、大阪府新池(しんいけ)埴輪製作遺跡(5世紀中頃から6世紀中頃)のように、工房と窯かまが集約して整備され、長期にわたって複数の古墳に埴輪を供給する体制がつくられました。
北部九州の円筒埴輪もおおむね畿内と同様の変化をたどります。一方で、表面を横方向に板で連続してなでることにより滑らかにする技法や、底の仕上げ方法など、畿内の技法の一部を用いないことが市内の埴輪の特徴と言えます。ただし、5世紀後半に畿内で生まれた、効率的な新しい作り方「断続ナデ技法」(目分量で突帯を貼り付け、古墳の盛り土に隠れてしまう一番下の突帯の仕上げを省略する技法)は、博多区東光寺(とうこうじ)剣塚(けんづか)古墳(6世紀中頃)で採用されています(写真3)。
また、市内の埴輪には、作り手または供給先を示すサインとも言われるヘラ記号がみられます。一方で、鋤崎古墳と西区丸隈山(まるくまやま)古墳(5世紀前半)等を除いて、同じ地域の古墳の埴輪に、同一の埴輪専業の職人集団が作ったと解釈できるような、共通性のある埴輪は、あまり多くありません。このことは、市内には、畿内で整備されたような、埴輪作りのみを行う職人集団が存在せず、古墳の造営ごとに作り手が集められ、埴輪が生産されたことを示しています。
Ⅳ ものをかたどった埴輪
市内の古墳からは、家や、蓋(きぬがさ)(従者が貴人にさしかける笠)、靫(ゆき)(矢を納めて背負って持ち運ぶための箱)・盾・甲冑(かっちゅう)等の威儀具(いぎぐ)・武器武具類、水鳥や馬、人をかたどった埴輪が見つかっています。
家形埴輪は、4世紀末から5世紀前半頃にかけて、市内で比較的多く発見されています。鋤崎古墳や丸隈山古墳では、家形埴輪が、靫や盾、甲冑などの埴輪とともに、古墳の頂上に配置されました。畿内では、棺の周囲に円筒埴輪列で方形の区画をつくり、その中に家形埴輪を置きました。周囲には武器・武具類の埴輪を据えて、聖域を護ったようです。これをふまえると、鋤崎古墳や丸隈山古墳を営んだ人びとは、畿内の古墳における埴輪の使い方を知った上で、埴輪を並べていたことがわかります。
一方、人物埴輪は、動物埴輪や家形埴輪と組み合わせて、亡き有力者をあの世に送る弔いの儀式の様子を再現するために、5世紀中頃に畿内で生まれました。市内では、博多(はかた)遺跡群出土の巫女形(みこがた)埴輪が、大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)古墳、5世紀中頃)出土のものに類似しており、古い時期の事例として重要です。その後、東光寺剣塚古墳等でも人物埴輪が出土していますが、元々どのような埴輪とともに古墳のどのあたりに並べられていたのかは、分かっていません。
市内出土の埴輪の中でも人気がある早良区拝塚(はいづか)古墳(5世紀前半)出土の盾持人(たてもちびと)埴輪(写真1)は、盾の後ろに立つ、兜(かぶと)をかぶった武人を模しています。盾は防御の象徴であるため、盾持人埴輪は古墳を護る役割を果たしました。しかし、本資料の盾は、立体的に表現されず、胴の部分に線刻のみで表され、類例がありません。また、円筒埴輪の技術を用いずにつくられている点も独特です。まるで盾持人埴輪の意味を知らない作り手が、情報のみを聞いてつくった埴輪のようです。
おわりに
拝塚古墳は、円筒埴輪よりも壺形埴輪を多く採用するふくおからしい古墳である一方で、畿内のものと遜色(そんしょく)のない草摺形(くさずりがた)埴輪も据えられました。これは、畿内の埴輪生産と関係のある作り手と地域で集められた作り手の両方が埴輪を生産・供給したことを意味します。盾持人埴輪はまさにこのような状況を反映した埴輪と言えます。
また、西区今宿大塚(いまじゅくおおつか)古墳(6世紀前半)においても、ヘラ記号や形象埴輪の装飾技法、円筒埴輪のサイズや突帯の数などの点で、有明海(ありあけかい)沿岸地域の影響を見ることができます。
このように、市内の古墳には、畿内をはじめ他地域の埴輪文化が断続的に及んでいました。一方で、市内出土の埴輪は、他地域と比べるとこれといった明確な地域色は見出せません。古墳の造営(ぞうえい)のたびに、他地域の影響を受けながら埴輪をつくった、それがふくおかの埴輪文化なのかもしれません。
(松尾奈緒子)