はじめに
大濠公園・福岡城趾空撮(部分)
昭和21年2月撮影
昭和20年(1945)6月19日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B―29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)により、福岡市の中心部は焼け野原になりました。特に、博多部は甚大な被害をうけました。福岡市は、この日を「福岡大空襲」の日として戦災死者の追悼を行っています。福岡市博物館では、平成3年から6月19日前後に企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、戦時期の人びとのくらしのあり方を、さまざまな観点から紹介してきました。
34回目となる今回は、昭和100年、戦後80年の節目ということで、福岡の人びとと昭和改元、戦争の時代に求められた役割、福岡大空襲、戦後のくらしを振り返ります。
戦後80年を迎えた今、昭和時代戦中、戦後の福岡の人びとのくらしのあり方に触れることで、改めて戦争と平和を考える機会になれば幸いです。
新たな時代―昭和改元
ポスター「東亜勧業博覧会」
大正15年(1926)12月25日に大正天皇が崩御し、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が皇位を継承しました。
同日に元号は大正から昭和に改められます。約1年間は大正天皇の喪に服する期間とされ、昭和時代は静かに始まりました。
福岡市では昭和2年(1927)3月から5月にかけて東亜勧業博覧会が開催されます。この背景には、産業の振興を通じて第一次世界大戦後の不況から脱却したいという経済界の希望がありました。博覧会は160万人を超える入場者を集めましたが、国内外の経済的危機が重なった結果不景気は長く続きました。
昭和3年、昭和天皇の即位の儀式が大規模に行われました。儀式のひとつに大嘗祭があります。これは、即位した天皇が新たに収穫した米を皇室の祖先に備え、五穀豊穣に感謝するものです。早良郡脇山村(現
早良区)が大嘗祭に用いる米をつくる場所に選ばれました。
戦争と国民―「総力戦」
絵画(千人針)
昭和12年(1937)7月、盧溝橋事件が発生し、日本と中華民国の間で戦争が始まりました。日中戦争は長期化し、さらに昭和16年12月にはアメリカとの戦争に突入します。昭和時代の戦争は、戦争継続を目標に人員、物資を計画的に動員する総力戦でした。多くの男性が兵士として召集される一方、直接戦闘に参加しない銃後の国民は、戦争を支援する体制に組み込まれることになります。銃後の国民には、兵士の送迎や慰問、貯蓄、食糧・資源の増産、防空対策など、多くの役割がありました。
戦時のことば―戦争継続のために
銃後の国民に向けた戦争への協力の呼びかけでは、国債購入、貯蓄、軍人援護、資源供出などのテーマで標語が作られました。ポスターや駅弁掛紙に標語を記す際には、文字だけでなく印象的な図柄が用いられます。
図柄は、前線兵士や兵器、戦争の目標を描くものと、銃後の国民の理想的な姿を描いたものが多くありました。
福岡大空襲と戦争の終わり
駅弁掛紙
(欲しがりません勝つまでは)
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)には、米軍による日本の都市への空襲が本格化します。
福岡大空襲では、6月19日の深夜から翌日の未明にかけて、マリアナ基地から飛来した約220機の爆撃隊が福岡市を襲撃しました。投下された焼夷弾は1358トンに及んだといわれます。『福岡市史』によれば、被災面積は3・78㎢、被災人口は6万599人、死者902人、負傷者1078人、行方不明者244人という甚大な被害でした。ただし、これらは判明しているものだけで、被害はより大きかったと考えられます。
8月14日、日本政府は連合国軍によるポツダム宣言を受諾することを決め、翌日にラジオ放送で国民に知らせました。9月2日には、降伏文書への調印式が行われ、国際的に終戦が確定します。
終戦によって戦時に国外にいた人びとの本国帰還が始まりました。
軍人・軍属にあった人びとの帰還は復員と呼ばれ、これ以外の人びとの帰還は引き揚げと呼びます。
博多港は引揚援護港に指定され、昭和22年まで、約139万人の復員・引き揚げ者を迎えました。
戦後を生きる
写真(天神町付近)
昭和21年1月撮影
戦災からの復興は、罹災地域のがれきの清掃から始まりました。モノ不足によって配給制が続く一方で、物資を高価に売るヤミ市がうまれ、福岡市は取り締まりを行いました。被災した街の復興は昭和21年(1946)1月に福岡市が設置した復興部が新たな都市計画を決定してから本格化しますが、経済的混乱の中で規模を縮小せざるを得なくなりました。人びとは、戦時中から続くモノ不足や戦後の制度の変化に対応しながら、街やくらしの再建をすすめていきました。
(野島義敬)