展示・企画展示室

No.623

企画展示室4

博多祇園山笠展24

令和7年7月1日(火)~9月7日(日)

はじめに

 博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)は、博多の総鎮守である櫛田神社(くしだじんじゃ)(福岡市博多区)で行われる福岡を代表する夏の祭礼です。
 昭和54年(1979)に国の重要無形民俗文化財に指定され、平成28年(2016)には、山車(だし)が巡行する他の32件の祭礼とともに、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコの無形文化遺産に登録されています。
 毎年7月1日から15日にかけて行われ、国内外からの多くの観光客でにぎわいます。この期間、市内13ヶ所には絢爛豪華(けんらんごうか)な装飾がほどこされた飾り山が立てられ、クライマックスの15日には「追い山」が行われ、舁(か)き山が博多の町々を駆け巡ります。
 当館では開館以来、山笠行事の期間にあわせて、「博多祇園山笠展」を開催しています。ユネスコの無形文化遺産登録から10年目となる今年は、当館が所蔵する江戸時代に描かれた山笠図を一堂に集め、紹介します。時代とともに変化しながらも、きらびやかな姿をみせる江戸時代の山笠をお楽しみください。

記録にみえる山笠

 博多祇園山笠は、江戸時代以来、さまざまな資料で紹介されています。現代と同様に江戸時代においても、山笠は人々をひきつける祭礼であったようです。
 元禄(げんろく)16年(1703)に福岡藩の儒学者である貝原益軒(かいばらえきけん)が編纂した「筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)」【資料2】によると近所の人々はもとより、筑前国中の男女や隣国の遊客も、作り山を見るために多くが集い、雨などで順延する時も、山をみるまで宿泊したとあり、非常に人気があったことがうかがえます。
 また、「筑前国続風土記拾遺(しゅうい)」(青柳種信(あおやぎたねのぶ)他編)では、藩から警備の役人が派遣されたとあり、警備が必要なほど人出のあるイベントであったことがわかります。
 山笠の見物人は、庶民だけとはかぎりません。黒田家の歴史書である「黒田家譜(くろだかふ)」【資料1】をみると、藩主や秋月藩主も山笠を見物したことがわかります。
 また、黒田家の家政を執りしきる納戸頭(なんどがしら)を勤めた杉山尚行(すぎやまなおゆき)が記した文政(ぶんせい)12年(1829)の日記【資料3】では、黒田斉溥(くろだなりひろ)が櫛田神社を参詣し、山笠を見物した記事があります。当日は、朝6時に御供とともに駕籠(かご)で櫛田神社へ向かいます。まず、神社で参拝を行い、次に神職の祝部陸奥守(ほおりむつのかみ)宅へ入り、桟敷で山笠を上覧したとあります。「山笠番付」【資料4】でも「かき山御しやうふ(勝負)」をご覧になったとの記載があります。
 このように多くの人出がある山笠の起源について、「筑前国続風土記」や櫛田神社の縁起をまとめた「筑前櫛田社鑑(ちくぜんくしだしゃかん)」では、永享(えいきょう)4年(1432)に始まったとされています。一方、最後の博多年行司・山崎藤四郎(やまさきとうしろう)がまとめた『追懐松山遺事(ついかいしょうざんいじ)』【資料5】では、山笠は標山(しめやま)を模したもので、もっと古くからの記録からみえると主張しています。
 江戸時代の舁き山は6本あり、毎年異なる町によって作成されます。その作成にあたった町は、番付という形で書き残されています。
 「山笠番附巡之方」【資料6】は、文久(ぶんきゅう)3年(1863)に写されたものですが、安永(あんえい)9年(1780)から明治32年(1899)までの山笠と能の当番町がまとめられています。また「山笠番付」では、天明〈てんめい〉元年(1781)から文久3年までの山笠の標題と人形飾り、当番町が記されています。また、標題の周囲には、年ごとに災害や疫病、事件などが記され、年代記としても機能しています。
 先の年代まで山笠の当番が決まり、山笠の標題を主としてさまざまな出来事が記される点など、山笠がいかに重要な祭礼であったかを物語っています。

描かれた山笠
7博多祇園山笠巡行図(部分)
7 博多祇園山笠巡行図(部分)

 「博多祇園山笠巡行図」【資料7】は、山笠の様子を描いた最も古い屏風絵です。描かれた年代の手掛かりは、屏風中央に描かれた「三浦北条軍」と左上の「東山」と標題のある2つの山にあります。
 「三浦北条軍(法記)」は伊勢宗瑞(いせそうずい)(北条早雲(ほうじょうそううん))と三浦一族が戦った新井(あらい)城の戦いの場面を題材としたものです。
 「東山」とある山は、鳥かごを手にする女性の人形が飾られている点から、仏法に帰依(きえ)し、一夜にして蓮糸で曼荼羅(まんだら)を織り上げ往生を果たしたという伝説上の人物・中将姫(ちゅうじょうひめ)の謡曲を題材とした「雲雀(ひばり)山」ではないかと考えられています。
 両方の標題が揃う年代が貞享(じょうきょう)3年(1686)であるため、現在では貞享3年の可能性が高いと考えられています。
 屏風のなかで一番目をひくのは、やはり中央に描かれる山です。周囲にある二階建ての建物を遥かに超える高さが特徴の一つです。
 現在では電線の影響により舁き山は低く作られますが、江戸時代は背の高い山笠を舁いて町中を巡りました。元禄(げんろく)元年(1688)から追い山が始まったとされますが、この高い山笠で行ったというから驚きです。
 屏風には、町や庶民の様子、山笠を楽しむ人々の姿が描かれており、当時の祭りの情景がありありと伝わってきます。
 山笠は軍記物や能、謡曲などを題材とします。標題が決まり、実際に山笠を作る際に設計図となるのが山笠図です。また、藩に建設の許可を得るためにも必要でした。絵図は、藩の御用絵師・上田氏やその門人である三笘(みとま)氏によって作成されましたが、現在、残されている絵図は三笘氏によるものばかりです。
 山笠の構造は時代と共に変化を見せます。巡行図に見える山笠は、装飾が控えめで、上部に多くの旗指物(はたさしもの)が見られます。それから百年ほどたつと、次第に建物、岩山、波などの造形物が増え、中央部がくびれた鼓(つづみ)形をしています。さらに19世紀にはいると、飾りが豪華さを増していきます。造形も精緻(せいち)となり、下部が太く、上部に向かって次第に細くなる形となります。

八嶋義之

  • 11 山笠図屏風(部分、赤坂城軍)
  • 21 山笠絵図(漢業興起導)
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休館日

開館時間
9時30分〜17時30分
(入館は17時まで)
2025年7月25日~8月24日の金・土・日・祝日と8月13日(水)・14日(木)は20時まで開館(入館は19時30分まで)
休館日
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(月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
※年末年始の休館日は12月28日(日)~1月5日(月)まで

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