No.624
企画展示室4
アジアの激動と福岡ゆかりの人びと2
令和7年9月9日(火)~11月9日(日)
辛亥革命と孫文
アヘン戦争やアロー戦争をへて、欧米列強の中国進出がすすみました。そうした中、中国では民衆の排外運動がおこります。1900年、山東省で義和団が蜂起し、北京の在留外国人が脅かされたため、欧米列強と日本は共同出兵しました。
清朝は、義和団事件以降、軍隊や産業の近代化をめざして欧米の技術の導入をはかります(洋務運動)。しかし、華僑や留学生などの間で革命運動が活発になっていきました。孫文の少年期・青年期は、まさに清朝の支配が揺らぎ、列強が中国に押し寄せてきた時期でした。
大正2年の孫文来日
孫文はその生涯で亡命も含め何度も来日しています。その中で、1913(大正2)年2月13日から3月23日までの訪日は、ただ一度の政財界の要人からも歓迎された公式来日でした。上海から長崎に上陸した孫文一行、まずは東京へ向かいます。当時、孫文は来日の目的を①商工業の視察、②鉄道業調査、③旧友との交歓、の3つであると語っています【読売新聞 大正2・2・15朝刊】。
東京では、まず、近衛篤麿(このえあつまろ)公爵、児玉源太郎(こだまげんたろう)陸軍大将、神鞭知常(こうむちともつね)の墓参りをしています。いずれも生前、孫文の革命運動を支援した人物です。
また、東京滞在中、多くの政治家や官僚、財界関係者に会っています。
山本権兵衛(やまもとごんべえ)(1852~1933)首相、
牧野伸顕(まきののぶあき)(1861~1949)外務大臣、
桂太郎(かつらたろう)(1848~1913)前首相、
犬養毅(いぬかいつよし)(1855~1932)、
後藤新平(ごとうしんぺい)(1857~1929)前逓信大臣、
山座円次郎(やまざえんじろう)(1866~1914)外務参事官
2月16日の芝公園紅葉館での「旧知の孫氏歓迎会」【読売新聞 大正2・2・16朝刊】では犬養のほか、頭山満(とうやまみつる)や寺尾亨(とうやまみつる)ら35名から歓迎を受けました。
福岡県内での孫文一行の旅程は次のようなものでした。福岡に滞在中の孫文は、旧友との交流に多くの時間を割いていたことが分かります。
3月16日(日)
09:00 明治専門学校(現・九州工業大学)を訪問安川敬一郎邸(やすかわけいいちろう)(北九州市戸畑区)へ
3月17日(月)
09:00 八幡製鉄所(北九州市八幡東区)を視察
16:00 常盤館(ときわかん)(水茶屋、福岡市博多区千代3丁目) へ移動
17:00 孫文の代理が福岡日日新聞社(須崎土手町、福岡市中央区天神四丁目)を訪問
18:00 安川ら主催の晩餐会
3月18日(火)
聖福寺(しょうふくじ)(福岡市博多区御供所(ごくしょ)町)
平岡浩太郎(ひろおかこうたろう)の墓参り
平岡良助(りょうすけ)邸(天神町、福岡市中央区天神2丁目)を訪問
中野徳次郎(なかのとくじろう)別邸(大名町、福岡市中央区大名2丁目)を訪問
玄洋社(西職人町、福岡市中央区舞鶴2丁目)を訪問
13:00 常盤館で旧友会
15:00 崇福寺(そうふくじ)(福岡市博多区千代4丁目)
安永東之助(やすながとうのすけ)の墓参り
九州帝国大学医学部(現・九州大学医学部)を参観
17:00 九州帝国大学で講演会
18:00 公会堂(現・旧福岡県公会堂貴賓館、福岡市中央区西中洲)で歓迎会
3月19日(水)
10:58 大牟田着、三池築港へ
11:10 四ツ山発電所着
11:40 三井港倶楽部(大牟田市)着、昼食会
宮崎滔天(みやざきとうてん)邸(熊本県荒尾市)へ
15:30 万田炭坑(荒尾市)へ
17:00 三井工業学校(現・福岡県三池工業高校)へ
19:00 三井港倶楽部で晩餐会
孫文一行が降り立った博多駅は、現在の出来町公園(博多区博多駅前1丁目)付近にあった2代目駅舎(1909~63)です。市内には路面電車が走っていました。福岡城の堀を埋め立てて会場にした明治43年の博覧会閉幕後、その跡地(中央区天神1丁目)で、福岡県庁(1915~81)が建設中でした。福岡市役所は水鏡天満宮(中央区天神1丁目)近くの木造二階建ての建物で、西鉄天神大牟田線となる電車の路線や百貨店もまだなく、現在は西日本有数の繁華街である天神地区はまだ人びとが集まるような街ではありませんでした。
孫文が参観し講演をおこなった九州帝国大学は、1911年に四番目の帝国大学として発足したばかりでした。墓参りで訪れた聖福寺や崇福寺のほかは、孫文が大正2年の公式来日の際に福岡で目にしたもので現在も残っているものとしては、旧日本生命九州支社と県公会堂くらいでしょう。
現在革命未成功
清朝打倒後、袁世凱の独裁化を阻もうとして敗れた国民党の孫文らは、1913年8月、日本に亡命します。
1925年3月12日、孫文は北京の病院で死去します。孫文の遺体は、いったん北京郊外に埋葬されましたが、1929年、南京の中山陵にあらためて葬られました。