No.625
企画展示室1・2
松永冠山と旧友泉亭杉戸絵
令和7年9月17日(水)~11月9日(日)
■作者、松永冠山について
本名・松永関蔵(せきぞう)(1894‒1965)。怡土(いと)村井原(現糸島市)に生まれ、同村加布里(かふり)で育ちました。幼少期から絵を好み、糸島郡立農学校(現福岡県立糸島農業高等学校)に一年通ったのち中退。京都へ出て、京都市立美術工芸学校(現京都市立美術工芸高等学校)、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)に通いました。在学中から文展で入選し、卒業直後も帝展で入賞を果たすなど、充実した画業初期を過ごしています。この頃、京都画壇の有力画家で四条派の菊池契月(きくちけいげつ)に入門。青年期を過ごした京都の景色は、その後もたびたび画題に登場します。
画業中期は、毎年のように帝展で入賞を重ねる一方、特選には一歩届かず、さらに火災や眼病などの不幸も重なり、悩ましい時期だったようです。雅号を変えたり戻したりした様子に、その心の内が表れているとされます。
初期中期の冠山は制作の傍ら、故郷での美術振興に協力してきました。例えば、東亜勧業博覧会(昭和2年(1927))や博多港築港記念大博覧会(昭和11年)で、竹内栖鳳(たけうちせいほう)をはじめとする日本画の大家の作品を展示できるよう尽力したと伝わります。自身も官展入賞作を出品し、地元経済界と関わりを深めました。特に炭鉱経営で成功した貝島家は、冠山の支援者として多くの作品を購入したと伝わります。四季花鳥図杉戸絵も、貝島家からの注文でした。
画業後期の冠山は、徐々に中央画壇から距離をおき、戦中から戦後は拠点を福岡に移しました。清貧な暮らしぶりで、糸島の風景や自然の移ろいを穏やかに写し、地域に多くの作品を残しています。また西部美術協会委員や福岡県美術協会の理事、糸島美術協会の初代会長などを務めたほか、福岡市立女子高等学校、佐賀大学教育学部、私立博多高等学校などで講師を務め、近代福岡画壇の振興と後進の育成に尽力しました。
■四季花鳥図杉戸絵について
昭和11年に完成した四季花鳥図杉戸絵は、貝島家が旧友泉亭(元は福岡藩主黒田家が建てた別邸)を取得し、建具を一新する際に注文したものです。襖(ふすま)障子の代わりに新調された板戸は杉の豪華な一枚板で、各室あわせて数十枚あり、冠山は住み込みで一年かけて絵を描きました。
先行研究によれば、杉戸絵はそれぞれ、夏の3室(睡蓮(すいれん)・松・竹)と冬の1室(梅)、早春・晩秋の廊下(柳・薄(すすき))となるよう構想されました。特に松図と竹図は障壁画の中核を担い、杉板という特殊な支持体と格闘した冠山が、桃山時代の長谷川派や江戸時代の円山派を学んだ成果があらわれていると言われています。
四条派の師・菊池契月からの影響はこれまで等閑視されてきましたが、睡蓮図に着目すると、モチーフの形態と配置が契月作《蓮華(れんげ)》(大正6年)とよく似ており、蓮池に葦(あし)とハグロトンボを添える着想も《鉄漿蜻蛉(おおぐろとんぼ)》(大正2年)と通じます。冠山の入門は大正11年とされますが、師の過去作に遡って学んだのかもしれません。比較すると、冠山が人物より景物に関心を寄せ、理想郷ではなく現実の景として蓮の間を企図したことがわかります。四条派というルーツと、冠山の個性が垣間見える一図といえるのではないでしょうか。
冠山の絵は思想や心象の吐露というより、四季の気配と色形の美しさを追求した絵だと言われます。純粋に画中の景を味わうとき、冠山の画業は真に報われるのかもしれません。
■前期:9月17日(水)‒10月13日(月祝)
■後期:10月15日(水)‒11月9日(日)



