展示・企画展示室

No.627

企画展示室3

勾玉(まがたま)展

令和8年2月3日(火)~4月19日(日)

はじめに

 アクセサリーのモチーフや歴史に関する体験学習の素材などとして、現代でも目にすることが多い勾玉。その歴史は古く、少なくとも3,000年以上あります。
 その長い歴史の中で、勾玉の形も役割も、移り変わっていきました。本展では、市内の遺跡から見つかった勾玉を集め、福岡の勾玉の歴史をひもときます。

Ⅰ 身を飾るための勾玉

 縄文時代の人びとは、動物の骨や牙、石、粘土を材料に勾玉を作り、装飾品としていました。縄文時代の勾玉は、弥生時代以降のものと比べると、形が多様で規格性がないことが特徴です。九州では、東日本で作られていた勾玉の影響を受けて、縄文時代の後半(3,500年~3,000年前頃)に勾玉が作られ、使われました。
 九州では、片側に手足のような突起を作り出す形(早良区四箇(しか)遺跡出土資料など)や、中央部がへこみ両端が曲がる形(西区大原(おおばる)D遺跡出土資料)の勾玉が多くみられます。これらの勾玉は、動物やその牙の形に似ていると指摘されています。縄文時代の人びとは、なんらかの呪術的な意味合いを込めた勾玉を、アクセサリーとして身に着けたのかもしれません。近年の研究により、九州では、クロム白雲母(うんも)という緑色の石材が勾玉に多く使われたことがわかっています。
 縄文時代も終わり頃になると、九州の勾玉の出土量は急減します。気候が寒冷化し、集落が減少したことと関係があるのかもしれません。北部九州で再び勾玉がよく使われるようになるのは、水稲農耕が始まる弥生時代になってからです。
代表的なものが、天河石(てんがせき)という青緑色の石で作られた勾玉や、板状で先端が曲がった形の滑石(かっせき)製勾玉です。天河石製の勾玉は、作りかけが見つからないことや朝鮮半島系の土器とともに出土することから、半島で製作されたものが持ち込まれたと考えられます。一方で、滑石製の勾玉は、製作途上のものも含めて集落域で見つかることから、北部九州の人びとが作り、使っていたようです。

Ⅱ 「力」の象徴としての勾玉
写真1
写真1
重要文化財 筑前吉武よしたけ遺跡出土資料
(文化庁所蔵)
※中央右寄りが翡翠製勾玉


写真2
写真2
早良さわら岸田きしだ遺跡出土
翡翠製勾玉
(福岡市埋蔵文化財センター所蔵)
※原寸大

 農耕文化が普及し人口が増えると、北部九州では、勾玉を、ストローを短く切ったような形の管玉(くだたま)と組み合わせて、青銅製の武器類などとともに、有力者の墓に副葬するようになりました(写真1)。このことは、日常生活の中にあった勾玉に、集団を率いる有力者の「力」を象徴する、社会的な意味が加わったことを示します。この時期の北部九州の勾玉の多くは、北陸で産出する希少な翡翠(ひすい)で作られていました。また、管玉は、朝鮮半島で作られ、製品として持ち込まれたものです。これらの玉類を身に着けることは、遠隔地と交渉し貴重な品を入手できる力があることを示すことでもあったのです。
 有力者の墓に副葬され始めた頃の翡翠製勾玉には、縄文時代の勾玉に形が似ているものや、ドーナツを半分に割ったような形をした北陸産勾玉なども散見されます。副葬品としての翡翠製勾玉の形に、厳格なルールはなかったようです(写真2は北陸産勾玉の可能性がある勾玉)。しかし、社会の階層化がすすむにつれ、頭部と尾部の境界のくびれが明確で、断面が円形に近い整美な勾玉(「定形勾玉」)が登場し、有力層の副葬品として普及していきました。
 やがて、朝鮮半島の楽浪郡(らくろうぐん)を通じて、北部九州に中国の文化的影響が及ぶようになると、青緑色や青色のガラスが勾玉の素材に用いられるようになりました。また、頭部に刻み目をもつ「丁子頭(ちょうじがしら)」定形勾玉も登場し、ガラス製勾玉とともに、有力な王の墓に副葬されました。副葬品の出土状況をふまえると、この頃の北部九州では、勾玉が、材質(翡翠やガラスが上質)や形(丁子頭定形勾玉がより上位)、大きさによって序列化され、有力者の身分表示のような役割を担う器物となっていたことがわかっています。


Ⅲ 政治的関係を表す勾玉
写真3
写真3
西区丸隈山まるくまやま古墳出土
翡翠製丁子頭勾玉
(周船寺公民館所蔵)
※原寸大

 古墳時代になると、鮮やかな緑色で透明度の高い良質な翡翠を使った整美な勾玉が、畿内を中心とする古墳に副葬されるようになります。丁子頭のものが多いこともこれらの勾玉の特徴で、福岡市内でも出土しています(写真3)。これらは、ヤマト政権が、弥生時代の北部九州で作られていた丁子頭定形勾玉のデザインを、復古的に取り入れて製作し、関係の深い地方の有力者に、政治的な結びつきの証として配布したと考えられています。ヤマト政権は、丁子頭定形勾玉がかつてもっていた政治的な力の象徴性を利用して、配布する勾玉の権威を高めようとしたのかもしれません。




Ⅳ 葬送アイテムとしての勾玉

 やがて、関東や山陰でも勾玉づくりが始まり、勾玉の材料は多様化していきました。福岡市内でも、ガラスや翡翠だけでなく、水晶、碧玉(へきぎょく)、瑪瑙(めのう)、琥珀(こはく)など、色とりどりの勾玉が出土しています。とくに、群集墳がつくられるようになると、葬送のアイテムとして勾玉の需要が高まり、出土量が増加します。福岡市内では、山陰地方でつくられた瑪瑙製の勾玉が数多く出土しています。一方で、これらの瑪瑙製勾玉の中には、朝鮮半島から舶来したものがあり(西区金武(かなたけ)古墳群D群11号墳出土資料など)、福岡の勾玉の特徴となっています。また、需要を補うためなのか、東区三苫(みとま)古墳群8号墳や西区金武古墳群C‒5号墳では、古い翡翠や天河石の玉類を勾玉として再利用したと考えられる事例もみられます。
 古墳時代の終わり頃になると、北部九州では、他地域に比べて翡翠を用いた勾玉が、多く副葬される傾向にあります。北部九州の人びとは特に翡翠を好んだのかもしれません。

Ⅴ 祀(まつ)りに使われた勾玉

 弥生時代以来、勾玉は、祈りの場面でも使われてきました。その多くは手に入りやすい粘土で作られ、厄災を防ぎ恵みを祈る儀式や、神を鎮める儀式などにおいて、神に捧げられました。
 古墳時代の中頃になると、加工しやすく入手しやすい滑石を使って、鏡や紡錘車(ぼうすいしゃ)、剣などの模造品や子持(こもち)勾玉がつくられるようになり、祭祀(さいし)の道具として普及・定着します。子持勾玉は小型の勾玉が背と腹、および側面に複数付属したもので、多産や豊穣の意味が付されていたと考えられています。博多区立花寺(りゅうげじ)B遺跡では、子持勾玉を5個以上出土し、水辺で祭祀を行った痕跡が見つかっています。

おわりに

 勾玉は、古墳とともに衰退していきました。古代以降、さまざまな地域で、古墳時代の勾玉の再利用や単発的な製作、神事などへの勾玉の利用があったことが指摘されています。西区大塚(おおつか)遺跡や吉武遺跡群出土の青銅製勾玉は、古代以降にどのような目的でつくられたのかわからない勾玉のひとつです。

(松尾奈緒子)

 本展の開催にあたり、周船寺公民館さまにご協力を賜りました。厚く御礼申し上げます。

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