No.629
企画展示室4
戦争とわたしたちのくらし35
2026年6月18日(木)~ 8月16日(日)
はじめに
昭和20(1945)年6月19日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B―29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)により、福岡市の中心部は焼け野原になりました。特に、博多部は甚大な被害をうけました。これを「福岡大空襲」と呼びます。福岡市では、6月19日に戦没者、戦災死者ならびに引揚死者の合同追悼式を行っています。福岡市博物館でも、平成3年から毎年6月19日前後に企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、戦時期における人びとのくらしのあり方を紹介してきました。
35回目となる今回は、直接戦闘に参加しない銃後の国民の防空対策を紹介します。昭和の戦争の時代には、日本でも防空事業が計画・実行されました。防空は軍だけでなく国民全体で取り組むものであったため、政府は銃後の国民の防空に関する知識を深め、意識を高めるために各種印刷物を発行しました。人びとは、空襲という危機に備えて組織化され、各種の防空訓練を行いました。
防空に対する政府のよびかけと銃後の人びとの活動から、戦争と平和を考える機会になれば幸いです。
「防空」知識の広がり
大正3(1914)年から7年にかけて行われた第一次世界大戦で、航空機を用いた上空からの目標への攻撃(空襲)がはじめて行われました。大戦の終結後は、日本でも空襲の対応である防空の重要性が高まります。
空襲の影響は軍事施設だけでなく広範囲に及ぶと考えられたため、飛行機の目印となる夜間の照明の制御や火災発生時の消火、負傷者の救助など、さまざまな作業が想定されました。これらの全てを軍だけで行うことは困難なので、防空対策は銃後の国民を動員します。防空への関心の高まりを受け、昭和12(1937)年3月に一般国民が行う防空の範囲や内容を定めた防空法が成立しました。防空法は翌月公布され、1年後の施行を予定しましたが、日中戦争勃発に伴い施行が10月に繰り上げられました。
この翌年、防空に関する知識を一般国民に広めるためのポスター「防空図解」が発行されました。大きさは菊判サイズ(長辺939㎜、短辺636㎜)で、作成にあたり陸軍の防空組織が指導を行いました。「防空図解」は「一般防空」「灯火管制」「防火」「防毒」の4つのカテゴリーに分かれており、全55枚の構成です。その内訳は、「一般防空」12枚、「灯火管制」10枚、「防火」12枚、「防毒」17枚、これに加え各カテゴリーの表紙4枚がありました。福岡市博物館はこのうち28枚を所蔵しています。
「防空図解」は、その名前のとおりイラストを使うことで防空の知識をわかりやく伝えることを主眼としています。「一般防空」では敵航空機の移動範囲や空襲の危険性、一般家庭での準備、「灯火管制」では明かりを消すことの重要性と建物ごとの灯火管制の行い方、「防火」では焼夷弾の脅威や防火活動時の服装、消火方法、「防毒」では毒ガスの種類と救護の方法など、事前の準備を含めた空襲へのさまざまな対策を紹介しました。
防空訓練
昭和13年10月2日撮影
防空の重要性の高まりとともに、各地で防空訓練が行われるようになります。昭和9(1934)年に各市町村に設置された防護団は住民、現役を離れた軍人、青年団員、消防組員で構成され、訓練を通じた防空技術の向上と他の住民への指導を行いました。昭和14年に防護団は消防組と統合され警防団と改称します。防護団・警防団の指導のもと、婦人会や町内会などの小規模な防空訓練も行われました。
防空訓練では、敵機の監視から防空警報、灯火管制、防火・消火、防毒、救護など、各種の防空活動を練習しました。
空襲に際して発せられる警報は、警戒警報・警戒警報解除・空襲警報・空襲警報解除の4種類がありました。警戒警報が発せられた時には、照明の明るさを落としたり、可燃物の処理や防火用水の準備を行ったりします。空襲警報の場合は、照明を消し防毒室に避難するなどの対応が必要でした。警報に応じて適切な対応をとるために、サイレンやラジオから発せられる警報を正確に理解する必要がありました。
飛来する敵飛行機の目印となるような地上の灯りを少なくするのが灯火管制です。灯火管制は空襲の危険度に応じて警戒管制と空襲管制の二種類があります。訓練の際には、空襲の危険度に応じて、警戒管制時の減光(照明の明るさを落とす)と空襲管制時の遮光(光が外に漏れないようにする)を行いました。
火災の予防や消火の訓練も行われました。ただ、一般国民は初期消火や火災発生時の延焼を防止することを目的とした防火を担当しました。実際の訓練では空襲前の天井板や障子の取り外し、家庭防空組合や隣組によるバケツリレーなどが行われます。
毒ガスに対する訓練も実施されました。毒ガスは種類によって窒息、皮膚のただれ、催涙、くしゃみなどの症状を引き起こします。戦争時の毒ガスの使用は大正14(1925)年に国際条約で禁止されましたが、日本では毒ガス弾が投下されることを想定し、外気を遮断した防毒室の設置や、防毒マスクの着用と救助に関する訓練が行われました。
福岡大空襲
太平洋戦争末期の昭和20(1945)年には、米軍による日本の都市への空襲が本格化しました。福岡市は九州地方の行政、商業の中心地であることから空襲の目標にされます。6月19日、マリアナ諸島を出発した220機以上の米軍機は、宮崎県から九州上空に入り、九州を横断して島原半島で進路を北に変更し、脊振(せふり)山系を越えて福岡市に進入しました。午後11時から未明にかけて、天神地区と博多地区を目標として大量の焼夷弾が投下され、市街地は焼け野原になりました。
『福岡市史』によれば、被災面積は3・78㎢、被災人口は6万599人、死者902人、負傷者1078人、行方不明者244人という甚大な被害を受けました。ただし、これらは判明しているものだけで、被害はより大きかったと考えられます。空襲の前には各種警報が発令されましたが、当時の市域の3分の1が被災地域となる大空襲によって、人びとは大きな被害を受けました。
福岡大空襲の約2ヶ月後の8月15日、ポツダム宣言の受諾が国民に伝えられます。9月2日に連合国との降伏文書への調印が行われ、戦争は終わりました。被災した都市部の復興と人びとのくらしの復旧は戦後の大きな課題となりました。








