No.632
企画展示室4
古文書と記録に見る福岡藩政史8
令和8年10月20日(火)~令和9年1月11日(月祝)
はじめに
当館では平成十(一九九八)年以降、館蔵の古文書や記録などを通して、江戸時代の福岡藩の歴史や文化について紹介する展覧会「古文書と記録で見る福岡藩政史」をシリーズで開催してきました。
八回目となる今回は、福岡藩主・黒田家が筑前国(現在の福岡県北西部)に入国した当初に進めた福岡城の築城と城下町の建設を取り上げます。
今回の展覧会では、黒田家の歴史や功績を伝える「黒田家譜」や、江戸時代の筑前国の歴史・地理・文化をまとめた地誌「筑前国続風土記」などから築城の経過をたどります。さらに福岡藩初代藩主の黒田長政や、その父・黒田如水(孝高・官兵衛)が家臣らへ宛てた書状などを通して、福岡城築城と城下町の建設の実態を紹介します。
黒田家の筑前入国
慶長五(一六〇〇)年九月におきた関ヶ原合戦において黒田長政は、小早川秀秋・吉川広家への事前工作などにより、徳川家康方の勝利に大きく貢献しました。その功績により長政は、新たな領地として筑前国ほぼ一国を与えられることになりました。豊前国中津(大分県中津市)から筑前に入国した長政は、当初、前領主・小早川秀秋の居城であった名島城(福岡市東区)に入りました。
名島城は北・東・西の三方を海に囲まれ、南側のみが陸地と接する丘陵地に位置する防御性と海上交通の便に優れた城郭でしたが、筑前国の領国経営に相応しい城下町を展開するには土地が手狭であったため、長政と父・如水は新しい城を建設することに決めました。「黒田家譜」によれば、建設候補地として箱崎(福岡市東区)、住吉(同博多区)、荒津山(荒戸山、同中央区)、福崎(同中央区)が挙がったといいます。いずれの地も博多湾岸に位置しており、経済の中心地であった博多との関係性を考慮し、候補地を選定したものと考えられています。
候補地のうち箱崎は海や川に囲まれ防御性に優れ、砂地で普請は容易ではあるものの水攻めされる危険性がある、春吉は平地が広がり博多に近いが、周辺に要害がなく防御性が低い、荒津山は三方が海に囲まれ防御性は高いが、四方に家臣を居住させ商人や職人などを周辺に集めて領国を守る場所には相応しくなく地盤も弱いと、いずれも一長一短があるため建設地には適さないと判断されました。こうして最終的に長政と如水は福崎を新しい城の建設場所に選び、築城することとしました。
築城は慶長六年から開始され、領内の支城の普請などと並行して普請や作事が進められ、「黒田家譜」や「筑前国続風土記」には、完成まで約七年の歳月を費やしたと記されています。
福岡城の築城
黒田家の草創期に如水と長政を支えた重臣・黒田二十四騎に数えられる野口一成と黒田一成に関わる古文書群には、福岡城の築城の経過がうかがえる書状が残されています。
先述の通り築城は慶長六年に開始されましたが、当初、長政は上方に滞在し、如水が国元で普請を指揮していたと考えられています。如水は七月二十四日付で野口一成・益田正親に宛てた書状で、八月十二日から石垣を築かせることを命じています。野口・益田ら四名に宛てた八月朔日付の書状では、翌二日から普請を開始することを伝えています。加えて、同十二日付で栗山利安・井上之房ら六名の重臣に宛てた書状では、予定の期日通り「天守之石垣」に取り掛かったかを問い、精を入れて行うように命じています。
一方、長政は、九月朔日付の書状で野口・益田の両名に、「天守」の守りとなる矢倉(本丸南側の武具櫓と推測される)を建てること、城山の根元に広がる所に石垣を築き、その石垣が如水の好みと違っていても当初の計画通りに築くこと、自身の帰国以前に天守台を完成させるよう伝えています。さらに「天守」の関わりでは、翌七年二月十五日付の書状で黒田一成に対して、「天守」の柱立(初めて柱を建てること、またその儀式のこと)を今月中に行う旨を大工・奉行へ申し聞かせるよう命じています。
これらの書状から、①福岡城の普請は慶長六年八月に始まり、同十二日からは石垣普請に取り掛かる計画であったこと、②石垣普請は「天守之石垣」から行われ、天守台は早期の完成が企図されていたこと、③翌七年二月には天守台が完成しており、「天守」の柱が立てられる予定であったことなどがうかがえます。
このほかにも、福岡城が完成したとされる慶長十二年以降にも長政から家臣へ宛てて普請に関わる指示を記した書状が出されています。これらは、城下町である福岡・博多の造営に関係するものと考えられます。
築城後の福岡城
福岡城の完成後も城下町の建設はなお続けられていましたが、その一方で城内ではすでに修理を必要とする建物が現れ始めていました。
慶長十六年に比定される三月三日付の書状で、黒田長政は家臣の小河之直に対して福岡城の「天守のらんかん」が腐った旨を聞いたので修理を申し付けるよう命じています。このことから、福岡城の「天守」は欄干を備えており、当時すでに修理を要す程度に腐っていたことが分かります。
また、隣国であった小倉藩・細川家に伝わる古文書群には、福岡城の「天守」に関する記録が残されています。元和六(一六二〇)年三月十五日・十六日付と推定される細川忠利の書状案には、「黒田長政が福岡城の大半を取り壊し、天守や屋敷までも破却した」との噂が江戸で広まっていることが記されています。この破却の背景には、同年から始まった大坂城手伝普請への対応があったと考えられています。しかし、その後の福岡藩側の資料には、福岡城の「天守」に関わる記述があるものが残されています。寛永十五(一六三八)年、福岡藩は江戸幕府に福岡城の修理を願い出ました。この時の修理目録には、本丸・二の丸・三の丸に加え、惣曲輪(城下町も含む城の外郭部分)の櫓や門も修理対象として記されており、修理が広範囲に及んでいたことが分かります。また、「天守台廻り矢倉・門・長屋四ツ除申事」とあり、天守台周辺の建物の撤去が計画されていたことだけでなく、当時すでに天守台上に建物が存在しなかったこともうかがえます。
このように福岡城は、築城完成直後から様々な理由で建物の取り壊しや修理が行われますが、幕末まで一貫して福岡藩の政治の中心として機能しました。








