平成26年1月28日(火)~3月30日(日)
2 「昔時唐船泊博多光景」図(『筑前名所図会』) |
二 近世の地誌
貝原益軒は、先に紹介したように『筑前国続風土記』のなかで「袖の湊」の位置を「入海(中海)」とし、袖の形から名付けられたものか、と推定しています。益軒は慎重な言回しをしていますが、そもそも「袖の湊」は、和歌の世界の言葉であり、袖の形から生まれたものではなかったのです。
文政(ぶんせい)4年(1821)年に成立した奥村玉蘭(おくむらぎょくらん)『筑前名所図会(ちくぜんめいしょずえ)』(図2)では、「袖の湊 博多の別名にして、いにしへより古歌に多くよめり。今はあせて陸となり、博多の町建てり、むかしハ唐船の泊せし所にて、その形袖のことくなりし故、名とす」と記し、「袖の湊」は博多の別名であったと言い切っています。
それに対して、天保(てんぽう)14(1843)年の『太宰管内志(だざいかんないし)』では、著者伊藤常足(いとうつねたり)は「袖ノ湊と云も、古歌には袖に湊のさわぐなどありて、恋ノ歌よむ時のとりなしにて、思川、涙川、涙ノ瀧などの如し、実の地名にあらず」と書いています。『伊勢物語』に立ち返り、「袖の湊」は歌の世界のことであり、実の地名にあらず、と述べているのです。これが妥当な評価ではないでしょうか。
3 「博多古図」(『石城志』) |
三 博多古図
「袖の湊」を図示した早い事例は、正保(しょうほう)3(1646)年の『正保福博惣絵図(しょうほうふくはくそうえず)』(黒田家資料)で、博多の西側に切れ込んだ水路に「袖ノ湊」が記載されています。その後、益軒の説をもとに、江戸時代には「袖の湊」を描き込んだ各種の「博多古図」が創作されるようになります。これによって、「袖の湊」の伝承が増幅されることになりました。
『参考蒙古入寇記(さんこうもうこにゅうこうき)』(1758年、津田元貫(つだげんかん))や『石城志(せきじょうし)』(1765年、津田元顧(つだげんこ)・元貫(げんかん)図1・3)では、「袖の湊」は入海(中海)の東側に描かれ、二川家(ふたがわけ)蔵の「博多古図」では博多湾側に、さらに明治時代に住吉神社に奉納されたという絵馬には入海の中央部に記されています。「袖の湊」の位置は、入海(中海)の東・西や南・北など、勝手に描かれることになってしまいました。いったん図示されてしまうと、あたかも実在したかのように、古図は自己主張するようになっていきました。
4 12世紀前半の「博多」(復元推定図) |
四 近年の研究
九州考古学の草分け、中山平次郎氏は、昭和2(1927)年に「和歌に現れたる荒津・博多・袖ノ湊」という論文で、保元(ほうげん)3(1158)年に大宰大弐(だざいのだいに)になった平清盛が、日宋貿易の拠点として「袖の湊」を修築した、という仮説を発表しました。これは、現在でも一般に史実のごとく見なされています。しかし、平清盛(たいらのきよもり)の「袖の湊」築港を表す文書や記録はなく、仮説は証明されていません。
近年の博多遺跡群の発掘成果と文献研究によって、「袖の湊」の存在は否定されています。その研究成果を反映した「12世紀前半の博多」(復元推定図 図4)に見ると、中山氏が「袖の湊」と推定した呉服町(ごふくまち)交差点付近は、12世紀前半にはすでに陸地化しており、博多の東西を貫く入海(中海)はなかったことがわかってきました。輸入された陶磁器の一括廃棄跡などから、中世前半の博多の港は、旧比恵川(ひえがわ)の河口で現冷泉公園(れいせんこうえん)付近にあったと推定され、整った港湾施設ではなく、浜辺の船着き場のようなものであったと考えられています。(林 文理)