平成26年4月15日(火)~6月15日(日)
№41 伝小寺政職所用三橘藤巴紋背旗(部分) |
№4 長溥の印 |
はじめに
現在、福岡藩主(ふくおかはんしゅ)黒田家の家紋として一般的に知られているのは、「藤巴(ふじどもえ)紋」と呼ばれる紋です。三つの藤の花房が左巻きに渦を巻くようにデザインされたこの紋は、黒田家のシンボルとして、様々な場面で見かけることができます。しかし、実際に黒田家ゆかりの品々を調べていくと、藤巴以外にも様々な紋が使われています。本展では家紋入りの武具や調度品、家紋のことを記した古文書等を用いて、黒田家の家紋の変遷や成り立ちをたどってみます。
一、家紋の使用例 現代~明治時代
近代以降に黒田家が用いている家紋はほとんどが藤巴紋です。11代藩主であった黒田長溥(
ながひろ)が明治になってから使っていた印には藤巴紋が入っています【№4】。また、旧福岡藩主の学問奨励の意志を継いで大正4(1915)年に設立された黒田奨学会の同窓組織は「瑞藤会(ずいとうかい)」、旧家臣が中心となって設立された黒田家の遺徳を顕彰する組織は戦後になってから「藤香会(とうこうかい)」と名付けられています【№5】。
黒田家と藤巴紋との関係を語る上で欠かせないのは、黒田孝高(よしたか)(官兵衛(かんべえ)・如水(じょすい))の有岡(ありおか)城幽閉時のエピソードです。それは、狭い牢屋(ろうや)から見えた藤の花によって孝高が勇気づけられ、生きる望みをつないだという「獄窓藤花(ごくそうとうか)の瑞祥(ずいしょう)」の物語です。司馬遼太郎(しばりょうたろう)や吉川英治(よしかわえいじ)らも作品の中でこの場面の描写に多くの紙幅を割いています【№1・2】。この物語を紹介した最も古い文献は今のところ大正時代に発行された金子堅太郎(かねこけんたろう)の『黒田如水伝』【№3】と考えられています。金子は「筑前古老(ちくぜんころう)の話」として紹介していますが、一方で「其(そ)の記録は勿論(もちろん)、他の書類にも、其の縁由(えんゆう)を記述するものなし」とも書いており、はっきりしたことは分かりません。
№38 白餅と藤巴 |
二、家紋の使用例 江戸時代
江戸時代の印刷物、具体的には瓦版(かわらばん)や江戸切絵図(えどきりえず)、武鑑(ぶかん)といったものには、藤巴紋はあまり見あたりません。かわりに「白餅紋(しろもちもん)」という丸い単純な形の紋が黒田家の紋として使われています。この紋は具足櫃(ぐそくびつ)、船印(ふなじるし)や旗指物(はたさしもの)、屋敷の鬼瓦(おにがわら)などで使用している事例が確認できます。古いものでは初代藩主黒田長政(ながまさ)の肖像画や兜にこの紋が入っています。どちらかというと対外的に目立つものに多く使われている印象を受けます【№5~20】。
一方、藤巴紋は甲冑(かっちゅう)の飾り金具や漆工(しっこう)の調度品、あるいは染織(せんしょく)品の刺繍(ししゅう)などの伝存例が多く、藤の花も写実的なものから幾何学的なものまで様々なデザインが確認できます。珍しいものでは筑前で鋳造(ちゅうぞう)された金貨に藤巴紋が入っていますが、全体として細かい技術が求められる工芸品などでの使用例が多い印象を受けます。瓦にも使われているのですが、基本的には軒丸(のきまる)瓦のみで、鬼瓦での使用例は見られません【№21~30】。
実は、江戸時代の黒田家では白餅紋を表紋(おもてもん)、藤巴紋を替紋(かえもん)としていました【№37~39】。ただ、両者の使い分けのルールについては、表紋・替紋という違いが反映されている伝存品も見られますが、両方を均等に扱っているもの【№31~34】も存在しており、今後の研究が俟たれます。なお、替紋の一つである「永楽銭(えいらくせん)紋」を使った品もごく少数ですが残っています。