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No.545

企画展示室2 黒田記念室

江戸時代の武士とは

令和元年11月12日(火)~令和2年1月13日(月・祝)

1 熨斗前立兜・紺糸威五枚胴具足
1 熨斗前立兜・紺糸威五枚胴具足
はじめに

 「武士」(もののふ、ぶし)とは、武芸を職能とする集団やその構成員を指す言葉です。武士の本来の務めは、甲冑や刀剣などの武具を身に着け、武力をもって朝廷・幕府といった公権力や主君に奉仕することでした。

 しかし、慶長(けいちょう)8年(1603)に江戸幕府が開かれて以降、武士の役割に変化が生じました。武士は本来の軍事的役割だけでなく、領国や領地を統治する政治的な役割を担うことになりました。さらに幕府や藩など行政組織の拡大・細分化が進んだ江戸時代中期以降は、政治的役割が武士の務めの大きな部分を占めるようになりました。

 本展覧会では、江戸時代、福岡藩主黒田家の治世を支えた福岡藩士を中心に、軍事的役割だけでなく、さまざまな形で務めを果たした「江戸時代の武士」の実像を、関連資料を通して紹介します。

「武」から「文」の時代へ

 慶長8年、征夷大将軍となった徳川家康(とくがわいえやす)は、同10年に将軍職を辞して息子・徳川秀忠(ひでただ)をその職に就かせ、同19年から翌20年(7月に元和(げんな)に改元)にかけて行われた大坂の陣を経て、徳川氏による支配を確実なものにしました。

 そのような状況の下で寛永(かんえい)14年(1637)から翌15年にかけて起きた島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)は、江戸時代における最大規模の戦いで、九州の諸大名とその家臣たちに武士本来の務めが求められた機会でした。

 福岡藩からも二代藩主・黒田忠之(くろだただゆき)と共に数多くの藩士が出陣し、当館が所蔵する黒田資料には、藩士が一揆後に戦いでの功績などを記して藩へ提出した書上が数多く残されています。三奈木(みなぎ)黒田家の黒田一任(かずとう)の書上【資料番号3】には、寛永15年2月27日の戦闘で原城(はらじょう)(長崎県南島原市)本丸の石垣を登り塀越しに一揆勢と戦っていたところ、石で殴打されたため石垣から転落し手足に怪我を負ったことが記されています。大音重成(おおとしげなり)も相手を鎗で倒したことに併せて、戦闘の最中に鎗で兜を突かれ石垣から落ちて重傷を負ったことを書上【資料番号4】に記しています。これらからは、江戸時代の武士が臨んだ、武士本来の務めの具体的な実情が伝わってきます。

 一揆後、幕末期に至るまで大規模な戦いは行われることはなく、武士に求められる役割も次第に変わっていきました。諸大名は、領内の統治のために法令や支配機構の整備を行い、家臣たちは、その下で武芸よりも政治的・官僚的な役割を次第に担うようになっていきました。

 島原で戦いに参加した一任や重成らも藩内で政治的な役割を担っていました。
黒田忠之が、慶安(けいあん)元年(1648)10月18日付けで発した定書の写【資料番号6】は、藩政に関わる様々な事項について、基本的な内容と担当すべき家臣の名前を書き上げたものです。当時、家老であった一任と重成の名前は定書の至る所に見え、彼らが藩政運営において重要な役割を果たしていたことが知られます。一任や重成の例からも、江戸時代の当初は、武士の務めが「武」から「文」による「治者」へと移り変わる過渡期であったことがうかがえます。

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休館日

開館時間
9時30分〜17時30分
(入館は17時まで)
※2024年7月26日~8月25日の金・土・日・祝日と8月12日~15日は20時まで開館(入館は19時30分まで)
休館日
毎週月曜日
(月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
※2024年8月12日~15日は開館し、8月16日に休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで

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