展示・企画展示室1

No.488

企画展示室1

西中島橋界隈

平成29年2月21日(火)~4月23日(日)

明治時代以降の西中島橋界隈
「明治三十五年頃 西中島」

33 「明治三十五年頃 西中島」

 西中島橋界隈は福岡・博多の中でもとりわけ早く近代化した場所でした。施設や建築物といった面から見ていくと、明治七(1874)年に精煉所跡に「福岡医学校(九州大学医学部のルーツ)」が設立されます。同18年にはこの場所で日本初の帝王切開手術が行われています。また、同9年には天神町に県庁舎(現アクロス福岡の場所)が、同10年には福岡橋口町に「第十七国立銀行」(現福岡市赤煉瓦文化館の場所、福岡銀行のルーツ)が、同12年には南新地に「勧業試験場」と水鏡天満宮東側の那珂川沿いに「博物館」が、同16年には中島町に「博多郵便局」が、同18年には博多で初めての2階建て煉瓦造りの西洋建築「福岡くらぶ」が建設されます。そして、同20年に東中洲を会場として開催された「第五回九州沖縄八県連合共進会」は50日間で84万人余りの来場者を集め、本部として建設された「共進館」はのちに福岡市会の議事堂としても使用されました。市名を「福岡市」とするか「博多市」とするかという有名な議論は、福岡と博多の境目に位置するまさにこの場所で行われたのです。また、同21年には当時福岡区長であった山中立木(やまなかたてき)(のちの初代福岡市長)によって枡形門の撤去が提案され、翌年3月にはその作業が完了し、この界隈の景観は一変しました。
 文明開化がいち早く訪れた西中島橋界隈は新しい情報に敏感な人々が集まる場所でもありました。中島町で薬屋兼書店を営んでいた藤井孫次郎(ふじいまごじろう)(五楽堂(ごらくどう))は上京した折に目にした「東京日日新聞」に触発され、仲間と共同で明治10年に「筑紫新聞」(西日本新聞のルーツ)を創刊しました。その後も藤井は「めさまし新聞」「筑紫新報」と発行を続け、同13年には社宅を福岡橋口町(はしぐちまち)に移して福岡地方最初の日刊紙「福岡日日新聞」を誕生させています。また、同31年には、中島町に「九州日報」の新社屋が完成しており、新聞社とは縁の深い場所でした。
 新聞社と同様に出版社も多く、植木枝盛(うえきえもり)の『民権自由論』を出版した「集文堂(しゅうぶんどう)」や地図や教科書類を手がけた「磊落堂(らいらくどう)」など出版・印刷業者が軒を連ねていました。
 近代以降に誕生した新しい業種である保険会社もこの界隈には多く見られました。東中島橋西詰の「明治生命火災保険」、西中島橋東詰の「日本火災保険」、同西詰の「日本生命保険」(現福岡市赤煉瓦文化館)はそれぞれがモダンな建築で、この界隈のランドマークとなっていました。
 西中島橋界隈に転機が訪れたのは明治43年に開催された「第一三回九州沖縄八県連合共進会」と路面電車の開通でした。博多駅から天神を経て黒門(くろもん)へと至る線路は中島町ではなく南側の東中洲を通ったため、以後の発展は南側を中心として劇場・映画館・飲食店といった施設や店舗が充実していき、現在へと続く繁華街・中洲の基礎が形成されていきました。それに呼応するかのように、大正期までには福博の名所として登場することが多かった西中島橋と日本生命保険の建物は、昭和に入ると路面電車が通る西大橋と大同生命保険・福岡県物産陳列所に取って代わられていきます。そして、昭和20(1945)年6月19日の福岡大空襲によって、西中島橋界隈は福岡側の一部を除いて焼失し、江戸時代以来、この土地に刻まれてきた記憶は失われてしまいました。

西中島橋界隈という地域の特性

 江戸時代には城下町の防衛拠点であり、人・物・情報が集まる結節点であったこの界隈は、明治時代以降、文明開化の中心地となり、新しい産業が興り、情報発信が行われ、人々が娯楽を求めて集まる場所となっていきます。成立事情が異なる博多と福岡という2つの町の間に位置していたこの界隈は、交通の便も良く、適度に空き地があり、古いしきたりにとらわれずに皆が何か新しいことをするために集まるにはちょうど良い場所だったのかも知れません。
(宮野弘樹)

休館日

開館時間
午前9時30分~午後5時30分
(入館は午後5時まで)
休館日
毎週月曜日
※月曜日が祝休日の場合は開館し、翌平日休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで
pressrelease

Facata(博物館だより)

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