展示・企画展示室1

No.509

企画展示室1

福岡藩御用絵師 狩野昌運

平成30年2月27日(火)~4月22日(日)

謎1 他の御用絵師との関わりは?

 昌運来福時、既に福岡にいた御用絵師は、探幽門下の尾形(おがた)家、大和絵に長じた衣笠(きぬがさ)家、寺社に作品が多く残る上田(うえだ)家です。彼らと昌運の交流が見えてくれば、福岡画壇と中央画壇の関係を捉えやすいのですが、なぜかあまり記録が残っていません。面白くない新参者だったのか、あるいは雲の上の人だったのか。

 分かっているのは、上田家二代目の永朴(えいぼく)が昌運に弟子入りしたことと、安信像と昌運像(出品2)、昌運作例の写しなどが数点、尾形家や衣笠家に伝わっていることだけです。

謎2 作品の制作年代は?

 昌運作例のうち、制作年代が記されているものはほんの一部です。これが画風の変化をわかりづらくしています。

 署名には少なくとも6つのパターン「狩野季信(すえのぶ)」「狩野昌運」「法橋(ほっきょう)狩野昌運」「法橋昌運」「狩野法橋昌運」「狩野法橋昌運藤原季信」がありますが、もし署名ごとに画風が共通していれば、これらは時期によって使い分けられたと言え、作品の制作年代を知る一つの手がかりとなります。本展覧会では試みに、作品を署名ごとに分類して展示します。果たして画風のまとまりはあるのでしょうか。少なくとも馬図に関していえば、「狩野昌運」署名の作例(出品5・6)は、「狩野法橋昌運」署名の作例(出品7・8)よりも若描きとみえ、署名ごとにある程度、時期のまとまりが想定できそうです。

謎3 いつ法橋(ほっきょう)になったのか?

 法橋位は元々高僧に贈られる位でしたがのちに絵師等にも適用されました。社会的に認められた証で、名誉な称号です。

 昌運作例のうち、法橋と署名しないもので制作年がわかるのは「人物図」(出品9)と「出山釈迦(しゅっせんしゃか)図」(出品10)です。一人前と認められてから10年後、31才頃の作です。一方で、法橋と署名され制作年も明らかな作例は、晩年のものばかり。その間30年近く、年紀をもつ作例がなく、法橋叙任(じょにん)時期が特定できません。そこで昌運の事跡を辿り、社会的立場を探ってみましょう。

 30代半ば、最初の年紀作から約5年後に、延宝(えんぽう)年間の禁裏(きんり)(御所)造営に参加しています。このとき担当した部屋の格は、そう高くなかったようです。

 40代前半は、師・安信の画論(がろん)書『画道要訣(がどうようけつ)』の口述筆記を任されています。一門の弟子の筆頭だったと推察できます。

 50才目前にして、一六八五年に安信が没し、翌年には養父である狩野了昌も没します。この頃から、名実ともに、狩野派を率いる重鎮になったといえます。

 その後福岡藩に抱えられ、58才時には貝原益軒(かいばらえきけん)像に法橋と署名しています。

 叙任にふさわしいのは、40代半ば以降でしょうか。資料の発見がまたれます。

  • 出品5 百馬図巻
    部分(狩野昌運)

  • 出品6 桜に馬図 
    部分(狩野昌運)

  • 出品6 桜に馬図 
    部分(狩野昌運)

  • 出品7 牛馬図(馬)
    部分(狩野昌運)

謎4 釣深斎? 鉤深斎?

落款印
(文殊菩薩図(狩野昌運)より)

 絵の署名の下に捺(お)されたハンコは落款印(らっかんいん)といって、絵師の号や姓が彫られています。昌運の落款印で多いのは、「釣深斎(ちょうしんさい)」もしくは「鉤深斎(こうしんさい)」と読まれる朱文方印です。本展でも20作品中13点に確認され、使用頻度の高さが窺えます。(右図参照)

 「釣深斎」は、江戸時代後期の画人伝『古画備考(こがびこう)』などに記された昌運の雅号です。しかし落款印をよくみると、第一字は、右側のつくりが「勺」ではなく「句」で、「鉤」と読めます。号は「釣深斎」なのに、印は「鉤深斎」。一体どういうことでしょうか?

 「鉤深」の語を調べると、古く『周易(しゅうえき)』の解説書「繁辞伝(けいじでん)上」に「鉤深致遠(ふかきをとりとおきをいたす)」とあり、「深く道理を究めること」を意味します。また杜甫(とほ)の詩「顧八分文学(こはっぷんぶんがく)の浩吉州(こうきつしゅう)に適(ゆ)くを送(おく)る」にも「鉤深法更秘(こうしんすればほうはさらにひせり)」という一節があり、「鉤深」は「(書の)奥義を深く追究する」といった意味合いに解釈できます。

 いずれも漢(かん)や唐(とう)代の古い言葉ですが、昌運は「鉤深」の意味を知っていた可能性があります。『周易』は儒教(じゅきょう)の基本経典として五経(ごきょう)の筆頭に挙げられ、日本でも早くから寺院などで研究されました。特に江戸幕府は儒教を重んじたことから、当時の文化人は、教養としてある程度の内容を共有していたと思われます。また前述の詩の伝来は断言できませんが、杜甫も日本で既に読まれています。

 一方「釣深」の語は、なんとなくニュアンスは想像できるものの、確たる故事(こじ)や典拠(てんきょ)が見当たりません。もしや昌運没後百五十年を経た『古画備考』の記事が誤字だったのではないでしょうか。

 つまり彼の本来の画号は「鉤深斎(こうしんさい)」で、「絵の奥義を究める者」を自負したのではないか。まだ検討すべき資料はありますが、一つの仮説として提案したいと思います。

謎5 高取焼(たかとりやき)にも?

出品14 布袋図(狩野昌運)

 福岡藩の御用窯(ごようがま)を務めた高取家に伝来する資料『高取歴代記録』や『高取家文書』によれば、昌運はしばしば高取焼の下絵を描くよう命じられたようです。布袋(ほてい)姿の香炉(こうろ)の下絵図案などが残っていますが、作例そのものは発見されておらず、詳細は今後の研究課題です。

おわり

 昌運の福岡での活躍から330年が経ちます。文献資料から想像される人柄はまるで完璧超人のようですが、目の前にのこされた作品は、さてどんな印象を与えてくれるでしょうか。謎とあわせて、お楽しみいただければ幸いです。
(佐々木あきつ)

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