平成30年10月16日(火)~12月9日(日)
藤崎遺跡の発掘調査
(約40年前の地下鉄工事前の調査)
はじめに
博多湾沿岸には古くから砂丘が形成されますが、これまでの発掘調査で弥生時代の遺跡が多くみつかっています。
弥生時代といえば、水田稲作のイメージが強いですが、周辺の環境が農耕には適していない砂丘の地には漁村的な集落や墓地が営まれました。弥生時代は大陸との海を通じた対外交流が活発となり、博多湾沿岸には日本列島の中でも先進的な国々が形成されました。発掘された海辺の遺跡からは、そこに暮らした人々がその対外交流においても重要な役割を担っていたことを物語ってくれます。
博多湾沿岸に暮らした弥生時代の海民(かいみん)について、遺跡の発掘調査資料から考えてみましょう。
副葬された壺
(藤崎遺跡)
砂丘に眠る開拓者
博多湾に面する海浜砂丘(かいひんさきゅう)は箱崎砂層(はこざきさそう)と呼ばれる堆積層が基盤となっています。沿岸で一連となる弓状の砂丘が形成されました。砂丘の形成は縄文海進のピークが過ぎた約四千年前からはじまると考えられますが、その時代の遺跡はあまりみつかっていません。
弥生時代の開始期になると、砂丘に墓地が営まれるようになります。福岡市内では今宿(いまじゅく)、博多(はかた)、吉塚(よしづか)などで遺跡がみつかっていますが、その代表が藤崎(ふじさき)遺跡です。弥生時代前期は木棺(もっかん)や大型壺棺(つぼかん)(甕(かめ)棺)を埋葬施設とし、小型の壺が供えられた墓が少なくありません。壺は丁寧な作りで、線刻や赤色顔料で装飾されたものがあります。翡翠(ひすい)製勾玉(まがたま)や碧玉(へきぎょく)製管玉(くだたま)などの副葬品をもつ甕棺もみつかっています。一方、近隣の砂丘上に同時代の集落がありません。平野の沖積微高地や台地上には農耕集落が多数あるので、平野開拓者の墓が砂丘上に営まれていた可能性が考えられます。
海民集落の形成
上左から貝玉、貝輪未成品、釣針、下左から石包丁、石剣未成品(姪浜遺跡)
弥生前期後半から中期(紀元前3世紀頃)になって、砂丘上にも本格的な集落が形成されるようになります。姪浜(めいのはま)遺跡や博多遺跡群などが、博多湾沿岸で最も古い段階に形成される集落になります。姪浜からは釣りや漁網の重りに使用された石製品(石錘(せきすい))と、塩作りに使用されたらしき焼けただれた土器などが出土しており、海に生きた人々の営みを伝えてくれます。さらに南海産の貝を素材とする装飾品、朝鮮半島からもたらされた土器や鉄斧(てっぷ)、銅鏃(どうぞく)、瀬戸内地方からもたらされた土器など、対外交流を物語る遺物も少なくありません。漁労と交易を主な生業とする海民集団が出現し、その集落が交流の窓口であったのでしょう。
また、姪浜、博多遺跡群からは生産加工を物語る石器の破片も多く出土しています。斧や収穫具、武器などの未成品(みせいひん)(製作途中または失敗品)があり、対馬の石材も使われています。自家消費のみならず、物流の拠点として石器生産も担っていたのではないでしょうか。