博多祇園山笠展19-堂山と描かれた近世福博の女性たち-
令和元年6月11日(火)~8月4日(日)
文久元年山笠「神剣護国始」
江戸時代の博多の夏の祭礼の主役といえば、勇壮(ゆうそう)で優美(ゆうび)な山笠でしょう。この展示では、本館が収蔵している黒田資料などから、多彩(たさい)な飾りを施(ほどこ)され優美で女性的な堂山(どうやま)とよばれる山笠図を集めて展示します。
また堂山にちなんで、祭礼や名所、生業や生活、芸能や伝承(でんしょう)といった視点から、当時の福岡や博多の町方(まちかた)に生きた女性たちの姿を紹介します。
近世前期の山笠と堂山の始まり
江戸時代も始まって100年近くたち、天下泰平の世となった元禄(げんろく)時代、福岡藩3代藩主黒田光之(くろだみつゆき)に仕えていた有名な儒学者(じゅがくしゃ)・貝原益軒(かいばらえきけん)は『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』のなかで、博多山笠は、九州各地からの見物客でごったがえしたと、記述しています。また益軒はこの時代の山笠は天辺(てっぺん)に城壁を造り、幾本もの旗(はた)で山を飾り人形に甲冑を着せ、武器を持たせる旗指の山が中心だったとも記述しています。
その数年後、4代藩主黒田綱政(つなまさ)の時代となった宝永(ほうえい)5(1708)年、藩の命令により、6本の山笠のうち、1、3、5の奇数番(きすうばん)は旗指山(はたさしやま)(「修羅(しゅら)もの」)、2、4、6番の偶数(ぐうすう)番は堂山といわれる山を作るようになりました。
堂山は、御殿(ごてん)やお屋敷の造り物が天辺にある山で、「蔓(かずら)もの」とも言われ、伝承(でんしょう)や物語に登場する女性を主人公にするため、「かつら」をつけた人形で飾られました。優美な山はそれまでも作られましたが、以後は毎年3本も見ることができるようになりました。
堂山が登場する時代背景には、三都(さんと)(江戸、京、大坂)はもちろん大きな城下町や博多などの都市で、本や人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)、歌舞伎(かぶき)を通じて、日本の神話や古典、能(のう)などの芸能、和漢(わかん)の歴史と文芸が、庶民(しょみん)にも広まったことがあります。
華麗・優美な幕末の堂山
本館の黒田家伝来の資料(黒田資料)の中には、嘉永(かえい)7(安政元、1854)年以後、山笠制作の許可を受けるために、博多から町奉行所に提出された山笠絵図が残されています。それらを見ると合戦や武勇伝の世界に限られがちな旛指山とは異なり、堂山の題材は和漢の歴史や文芸、伝承から、さまざまな内容に及んでいます。
基本的な舞台である御殿(ごてん)やお屋敷を背景として女性が登場するものには、日本神話から天照皇大神(あまてらすおおみかみ)などの女神、また古典や能からは女性歌人が和歌の不思議な力により主人公を助け、勇気づけるといった話などがあります。
合戦譚(たん)や軍記物(ぐんきもの)からは、中国の三国志(さんごくし)などで劉備夫人(りゅうびふじん)と御殿などを守る武将関羽(かんう)の話や、お釈迦(しゃか)様の誕生をめぐる父王と母夫人の話などがあり、また日本の古典からは源平(げんぺい)の世で戦を逃れた常盤御前(ときわごぜん)と3人の幼い子たちの話も取り上げられ、また出世した武将の少年期の逸話(いつわ)なども好まれました。たとえば羽柴秀吉(はしばひでよし)の甥にあたる加藤虎之介(かとうとらのすけ)(後の清正(きよまさ))の、秀吉への初お目通りの話などがあります。
幕末の堂山では、主人公として女性が取り上げられても、男性や子供を助けたり、力づけたりするための役割が強調されているようです。