電気紋織-博多織から生まれた技術革新-
令和2年1月28日(火)~4月12日(日)
はじめに
昭和の初め、博多織のふるさと・福岡で、ある織機が誕生しました。それは博多織元であった中西金作が発明した「電気的紋織装置(以下 電気紋織機(でんきもんおりき))」です。これは、従来のように型紙である紋紙(もんがみ)を準備することなく、書画や図面はおろか写真の柄まで、その場で織り出す画期的なものでした。
電気紋織発明まで―中西金作の歩み
中西金次郎の次男として明治35(1902)年に生まれた金作は、福岡男子高等小学校に進学するも父の意向により2年目で中退しました。その後、大正11(1922)年、金作は太刀洗(たちあらい)の飛行隊に志願し、入隊しました。飛行隊では一般兵科訓練が終わると飛行機、電気、無線、有線通信などの特業に分かれており、金作は無線を志望しました。軍隊での無線修行は、後に電気紋織機を発明する上で大きなプラスとなりました。
兵役を終えたその年に、父金次郎が御大典献上のテーブルクロスの製作に何万枚にも及ぶ膨大な紋紙を用意して取り掛かる姿を目の当たりにしました。他の繊維工業界は紡績から染色整理に至るまで機械化されているにも関わらず、紋織過程だけが手仕事のまま取り残されていることを嘆き、これが電気紋織機を発明する動機となりました。
電気紋織のアイディアが浮かんだのは、濃霧警報の自動装置に関する記事と写真を目にしたことがきっかけでした。これは、海峡の両岸に2つの灯台があって一方から他の方に光を出しておくと海峡に濃霧が発生して、この光が遮られると警鐘が自動的に鳴り出すという装置でした。これを見た金作は、この原理を応用して紋紙なしに織物を織ることができないだろうかと考えました。そのためには、光の強弱を電気エネルギーに変換する光電管(こうでんかん)が必要不可欠でした。
大正15(1926)年の春、特許出願に関することで上京した際、上野の不忍池のそばの展覧会を覗くと、「感光性発電地」というものが東京市財団法人理化学研究所から出品されていました。翌日には早速同研究所を訪ね、昭和3(1928)年まで同研究所で紋織機の研究に専念することになります。
この間、見聞を広めるために、金作は様々な展示を熱心に見て回りました。東京市電気研究所の展示を見に行った際、職員に声を掛けたところ同研究所で光電管を作っていることが分かりました。そこで、同研究所に光電管を作ってもらい、金作のアイディアがいよいよ実現することになりました。そして、苦心の末、昭和5(1930)年に電気的紋織機を完成させることができました。
その間、外国特許24件、日本特許70件、日本実用新案37件をとり、これらの発明が評価されたことによって昭和7(1932)年に恩賜(おんし)発明賞、翌年に朝日賞を受賞、昭和46(1971)年には黄綬褒章(おうじゅほうしょう)を授与されています。