戦国時代の博多展9 “筑前表錯乱” ─1550年代の動乱
令和2年7月14日(火)~ 9月13日(日)
永禄(えいろく)3年(1560)、織田信長(おだのぶなが)は桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわよしもと)を討ち取り、天下人(てんかびと)への道のりに大きく一歩踏み出しました。この頃、九州では戦国時代の大きな転換期を迎えます。
本展では、1550年代の約10年間をかけて新たな体制に変化を遂げていく様相を、館蔵の古文書を通して紐解いていきます。
一 1550年以前の政治状況~大友氏と大内氏の対立
応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(1467~1477)以降の約100年間を戦国時代(せんごくじだい)と呼びますが、九州では室町幕府(むろまちばくふ)の威令(いれい)が及びにくく、南北朝(なんぼくちょう)の動乱から断続的に戦乱が続いていました。幕府が九州統治のために設置した九州探題(きゅうしゅうたんだい)は15世紀前半に少弐(しょうに)氏との抗争で力を失い、探題渋川(しぶかわ)氏を支援して周防山口(すおうやまぐち)を本拠とする大内(おおうち)氏が九州に進出すると、北部九州の政情は大内・渋川氏と大友(おおども)・少弐氏との二つの勢力が対立する状況(図1)で推移します。
二 大内氏の内紛と筑前国内の混乱~義隆の自害と義長の擁立
長らく続いた両勢力が争う状況は、1550年代を経て新たな体制に変化を遂げます。そのきっかけは、大内氏の内紛でした。天文(てんぶん)20年(1551)、重臣の陶晴賢(すえはるかた)が謀反(むほん)を起こして大内義隆(よしたか)を自害に追い込み、大友義鎮(よししげ)(宗麟(そうりん))の実弟晴英(はるふさ)(後に義長(よしなが))を新当主に迎え入れます(図2)。晴賢は高鳥居城(たかとりいじょう)(糟屋郡篠栗町・須恵町)の筑前守護代(ちくぜんしゅごだい)杉興運(すぎおきかず)を討ち、自身が筑前守護代となり、家来の毛利房広(もうりふさひろ)を筑前小守護代として送り込みますが、早くも同22年に筑前国内の政情は悪化します。怡土郡代(いとぐんだい)が城督(じょうとく)を務め大内氏の筑前支配の一翼を担ってきた高祖城(たかすじょう)(糸島市・福岡市西区)において、原田隆種(はらだたかたね)の高祖里城(たかすさとじろ)が房広を主将とする大内軍に攻め落とされています。同23年には高鳥居城が陥落し、大内氏の筑前支配は混乱を来たします。