博多祇園山笠展21
令和4年6月21日(火)~8月28日(日)
はじめに
博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)は、毎年7月1日から15日にかけて開催されている櫛田神社(くしだじんじゃ)(福岡市博多区)の祭礼です。祭りの期間中には豪華絢爛な飾り山が市内各所に立てられ、勇壮な舁き山が博多の街中を駆け巡ります。新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響により、一昨年はほぼ全ての行事が延期となり、昨年は飾り山(一部を除く)の公開のみの実施でしたが、今年度は例年通りに実施する準備が進められています。
当館では、山笠の期間にあわせて、ほぼ毎年「博多祇園山笠展」を開催してきました。21回目となる今回は、江戸時代中期から幕末期にかけて描かれた山笠図などを通して、当時の祭りの様子を紹介します。また、江戸時代の山笠の標題や明治時代以降の山笠の変遷についても見ていきたいと思います。
江戸時代の山笠の姿
江戸時代、櫛田神社に奉納された山笠は、現在の飾り山のように背の高い山笠でした。その姿は江戸時代を通じて一様ではなく、時期によって少しずつ変化していきました。
山笠を描いた最も古い絵画として知られている「博多祇園山笠巡行図屏風(部分、パネル)」【資料1】に見える山笠は、17世紀の終わり、貞享(じょうきょう)3年(1686)のものと考えられています。甲冑や着物を着せた等身大の人形を飾り付ける点は現在と同じですが、装飾は控え目で、山笠の上部などに数多くの旗指物が飾られているのが特徴で「旗指し山」と呼ばれています。
宝永(ほうえい)5年(1708)、福岡藩の命により山笠の標題を、1、3、5番山は合戦物を主題とした「修羅(しゅら)」、2、4、6番山は女性が登場する物語などをテーマにした優美な「かずら」とすることが決められました。「修羅」は「差し山」、「かずら」は「堂山」とも言い、「差し山」は上部に城郭などの作り物を据えて神額や鶴亀などの飾りを掲げた一間程度の竿を立て、「堂山」は同じ箇所に御堂や館などの飾りを施しました。
18世紀の終わり、寛政(かんせい)8年(1796)の山笠を描いた「博多祇園山笠図屏風」【資料2】を見ると、前述した決まりごとの通りに山笠が仕立てられていることが分かります。建物に加え岩山や波を表現した作り物も飾られた山笠の姿は、中央部がくびれた鼓のような形をしていました。
19世紀に入ると山笠は華やかさを増します。弘化(こうか)3年(1846)の「博多祇園山笠図」【資料4】に描かれた山笠を見ると、館や波の作り物は前の時代と比較して洗練され、全体的により豪華な印象を与えています。また、山笠の姿は、下部が太く上部に向かって少しずつ細くなっていく形となりました。