平成11年8月3日(火)~12月5日(日)
【福岡県指定文化財】
(2)木造慈覚大師像(もくぞうじかくだいしぞう)
大牟田市 普光寺 (像高)51.0センチ 室町時代(正長2年/1429)
像内に残る銘文から、室町時代に京都の弁阿闍梨(べんあじゃり)が慈覚大師(円仁(えんにん))像として造ったことがわかります。慈覚大師像の作例はあまり多くありませんが、平安時代後期に成立し天台宗の高僧を多く載せる「高僧図巻(こうそうずかん)」には、座禅を組み、丸顔で額と目尻に皺(しわ)のある姿であらわされています。本像も大体その特徴に一致しており、同じ系統の図像にもとづいて造られたと考えられます。
慈覚大師(じかくたいし)(円仁(えんにん))【794~864】
平安時代前期の僧。下野(しもつけ)国(栃木県)出身。15歳で比叡山に登り、最澄(さいちょう)(伝教大師(でんきょうだいし))に学ぶ。40歳を過ぎて唐(中国)に留学し、密教などを学ぶ。帰国後は天台座主(てんだいざす)として天台宗の発展に大きく貢献した。入唐中の記録『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』は有名。
【太宰府市指定文化財】
(3)木造鑑真和上像(もくぞうがんじんわじょうぞう)
太宰府市 戒壇院 (像高)70.7センチ 江戸時代(宝永2年/1705)
奈良・唐招提寺に残る奈良時代の鑑真像(国宝) を摸した像です。台座後屏(こうへい)の銘文から江戸時代に福岡城下の人々を壇主(だんしゅ)として、仏師照暁(しょうぎょう)によって作られたことがわかります。本像は唐招提寺像をよく写していますが、よく見ると頭部の形状や衣の皺(しわ)などが少しずつ異なり、画像などをもとに造られた可能性があります。作者の照暁は江戸時代前~中期にかけて、筑前(福岡)で活躍した京都仏師です。
鑑真(がんじん)【688~763】
奈良時代の中国僧。もと揚州大明寺(ようしゅうだいめいじ)にいたが日本からの要請で渡日を決意。嵐などで5度の渡航に失敗し、途中失明しながらも6度目で渡航に成功。来日後、天皇はじめ多くの人々に戒律(かいりつ)(仏教徒が守る約束事)を授け、律宗(りっしゅう)を開いた。
(4)木造弘法大師像(もくぞうこうぼうだいしぞう)
前原市 千如寺大悲王院 (像高)44.5センチ 江戸時代(弘化5年/1848)
ひねった右手に五鈷杵(ごこしょ)、左手に数珠(じゅず)を持つ一般的な弘法大師(空海(くうかい))像です。江戸時代の祖師像は持ち物や衣服などで像主を象徴的にあらわす傾向がみられますが、本像の表情には緊張感があり個性が感じられます。台座の銘文から作者は幕末の博多仏師佐田慶尚(さだけいしょう)であることがわかります。弘法大師像は真言宗の宗祖として、画像・彫像ともに極めて多く作られました。
弘法大師(こうぼうだいし)(空海(くうかい)) 【774~835】
平安時代前期の僧で真言宗の祖。讃岐(さぬき)国(香川県)出身。31歳の時遣唐使船で唐(中国)に渡り、体系的な密教をはじめて日本にもたらした。帰国後は多数の著作をあらわして教義を整備し、道場として高野山を開くなど宗派の発展に尽力した。能筆家としても知られる。(5)木造日蓮上人像(もくぞうにちれんしょうにんぞう)
佐賀県三養基郡基山町 瀧光徳寺 (像高)104.3センチ 江戸時代(天保12年/1841)
本像は頭部が体に比べて大きく顔の表現も形式的で、実際に生きた人間というよりはむしろ仏像的な要素が濃厚です。しかし、後襟を立てた衣に金襴(きんらん)の袈裟(けさ)を掛け、目を見開いて手には経巻(きょうかん)(欠失)を持つ姿勢は、一般的には日蓮上人像以外にはみられません。このことは持ち物や衣服、姿勢などで像主が特定できれば肖像は成立することを示しています。
日蓮(にちれん)【1222~1282】
鎌倉時代の僧で日蓮宗の祖。比叡山で天台宗を学んだ後、法華経の理念によって世の中を変革しようとする教義を確立した。『立証安国論(りっしょうあんこくろん)』を著わして浄土宗など他宗を激しく攻撃し、また鎌倉幕府には変革の必要性を訴えたため、度々迫害、弾圧されたが屈しなかった。