平成11年8月3日(火)~12月5日(日)
2 俗人像(ぞくじんぞう)-世俗(せぞく)への展開-
多くの祖師像に混じって世俗の人々の肖像彫刻も残されています。その始まりは祖師像よりも遅く、記録の上では平安時代から登場し、現存作品では鎌倉時代に作られた神奈川・名月院(めいげついん)の上杉重房(うえすぎしげふさ)像や、神奈川・建長寺(けんちょうじ)の北条時頼(ほうじょうときより)像などが早い時期の遺品として知られています。このように、最初は極めて地位の高い人物のものであった肖像彫刻ですが、次第に一般の階層にまで広がりをみせ、江戸時代には少数ながら、武家や富裕な商家でも家祖や当主の彫像を造る者があらわれました。
世俗の肖像彫刻が造られた主な理由としては、亡くなった肉親などの菩提(ぼだい)を弔(とむら)い追慕する心情的なもの、そして経済的に寺院の建立に貢献した等の社会的なものなどがあります。しかし、中には親の死後も生前と変わらず仕えるためといった道徳的価値観による場合もあり、その理由は必ずしも一様ではありません。
本展示では江戸時代の俗人像をいくつか取り上げています。一般に江戸時代は仏教が徳川幕府の政治体制に組み込まれて沈滞し、肖像彫刻も含めて仏像彫刻が質的に衰えたといわれています。しかし寿像(じゅぞう)のように、生きた像主(ぞうしゅ)を目の前にして制作した俗人像の中には、近世的な感覚を反映させながら独特の個性を発揮したものがあり、今後肖像彫刻のあり方を考えるうえで注目されます。
【武雄市指定文化財】
(6)木造後藤貴明像(もくぞうごとうたかあきぞう)
佐賀県武雄市 貴明寺 (像高)65.8センチ 桃山時代(天正16年/1588)
烏帽子(えぼし)を被り手には扇子(せんす)と刀を握る戦国武将の像です。像内などの銘文により貴明の死から5年後、次郎左衛門という人物がみた夢のお告げにもとづき、貴明の妻子が仏師感定軒(かんじょうけん)に作らせたことがわかります。本像は体部が楠(くす)材なのに対して頭部は珍しく桐(きり)材でできています。桐は能面などを作るのに適した材ですが、像主の顔を彫る際には特別な注意が払われたことが想像されます。感定軒については博多の仏師とする記録があります。
後藤貴明(ごとうたかあき)【1534~1583】
戦国時代の武将・肥前の大名大村純前(おおむらすみあき)の子として生まれ、後に肥前(佐賀県武雄市)の領主後藤家を継いだ。大村氏や有馬(ありま)氏などと戦い一時勢力を伸ばすが、後に戦国大名龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の傘下に降った。
(7)木造大野忠右衛門像(もくぞうおおのちゅうえもんぞう)
福岡市中央区 金龍寺 (像高)89.7センチ 江戸時代(元禄2年/1699)
像とともに残る木製の由緒書から忠右衛門58歳の寿像(じゅぞう)であることがわかります。藩の重役らしく堂々とした風格を具え、簡素な作風ながら人物の顔や体の特徴が的確にとらえられています。制作の意図や作者については不明ですが、比較的くつろいだ姿勢であることから家族などが私的な理由で造ったことが考えられます。また、大野家が金龍寺の有力檀家(だんか)であったことから檀越像(だんおちぞう)の可能性もあります。
大野忠右衛門(おおのちゅうえもん)【1641~1714】
江戸時代前~中期の福岡藩士。名は貞勝(さだかつ)。4代藩主黒田綱政(つなまさ)に仕え、糟屋郡奈多(なた)浜(福岡市東区奈多)の塩田開発の指揮をとったことが記録にみえる。大野家の家禄は1,000石で、家紋は丸に上の字。
(8)木造松尾芭蕉像(もくぞうまつおばしょうぞう)
館蔵(旧吉川観方資料) (像高)30.8センチ 江戸時代(天保14年/1843)
頭巾(ずきん)を被り、両袖を膝前であわせる松尾芭蕉像です。江戸時代に描かれたいくつかの芭蕉像に共通する顔の特徴は、釣り目で鼻筋が長く口元が小さいことなどで、本像もみごとにその特徴に一致しています。本像を納めた厨子の銘文から、芭蕉の150回忌に造られたことがわかり、俳聖としてあがめられた芭蕉像のあり方が窺われます。
松尾芭蕉(まつおばしょう)【1644~1694】
江戸時代前期の俳諧師(はいかいし)。伊賀上野(三重県上野市)出身。最初は武家に奉公しながら俳句をおぼえ、のちに江戸に出て独自の俳風を確立した。生涯多くの旅行をおこない『奥の細道』など優れた文学作品を残した。