平成19年6月19日(火)~平成19年9月2日(日)
それでは少し整理してみましょう。
まず地図からは、分布の偏(かたよ)りをはっきり見て取ることができます。亥の子にはややばらつきがありますが、丑の日と社日は集中しています。つまり地域ごとの特徴が認められるわけです。大まかに区切って、北九州地域は亥の子、福岡・筑豊地域は丑の日、筑後地域は社日に稲の収穫祭を行っているといえるでしょう。
さらに(1)~(6)であげた各地の事例からはいくつかの特徴が見いだせます。
特徴A 行き来する田の神
3つの収穫祭いずれにも共通する特徴として、田の神は春に田に出かけて行き稲を育て、秋に田から戻って来ると考えられている点があげられます。(1)の天籟寺は田の神が1月11日に出かけ、11月亥の日に戻り、(4)の草場は2月初午に出かけ11月丑の日に戻る例で、どちらも家の荒神棚が田の神の冬の住処(すみか)です。いっぽう(3)平等寺の「丑様が作をしに下って来らっしゃる」や(5)久木原の「3月にやってきて」という表現からは、田の神が家の外、例えば天などから下りてきて、家を経由して田へ向かうイメージを読み取ることができます。
こうした田の神が行き来するという考え方は、全国に広くみられ、日本の田の神信仰の根幹にかかわる問題です。そうであるだけに土地ごとにたいへん複雑で多様な形式を持っています。ウシサマの伝承は、その類型の一つと考えることができるわけです。
特徴B 最後の稲束
収穫祭の伝承の中で特異なものが、わざと稲を刈り残し、それを収穫祭当日に刈り取ってくるという行為です。
ウシサマを祭る(飯氏) |
(2)今井では、刈り残した3株の稲を亥の子の日に刈り、それを田の神といってまつっています。(4)草場のように12株を丑の日に刈り取り「重たい、重たい」といいながら運んで丁重に家に迎え入れる例も多く、その稲がすなわち《丑様(ウシサマ)》と呼ばれる丑の日の神様でした。
これらの例から、刈り残した稲が収穫祭にまつるべき対象そのものとして意識されていることがわかります。ではなぜそれが最後の稲束でなければならなかったのでしょうか。
(7)田川郡添田(そえだ)町津野(つの)では「旧2月の初丑の日にタナ天神様が天から降りてこられるので、晩に餅を搗き、お鏡餅を種籾俵(たねもみだわら)の上に一重ね供える。旧11月初丑の日を丑様といい、タナ天神様がお帰りになるので、お弁当として餅一重ねか小豆御飯を種籾の上に供える」といいます。
これは石川県能登(のと)半島のアエノコトにたいへんよく似ています。辞典の要約によれば(『日本民俗大辞典』)、アエノコトは「毎年稲作終了後の12月5日に、田の神を迎えて収穫を感謝し、2月9日の新年に豊作を祈願して田の神を送るという家ごとの」行事で、「はじめに家の当主が田圃(たんぼ)の水口(みとぐち)で田の神を迎え、家に招いて泥を落とすため風呂に案内し、また栗やケヤキの枝で囲炉裏(いろり)の火を焚く。家の茶の間には種子籾2~4俵を依代(よりしろ)とした祭壇が設けられ、田の神は男女2神であるから山の幸・海の幸の料理を盛った膳や栗箸、二股大根、新米で作った甘酒などの供え物を2組用意する。」「儀礼が終わると、田の神は種子籾俵で翌年の春まで過ごすので、俵は家の納戸(なんど)か夫婦の寝間、ニワ(土間)の天井で大切に保管される」というものです。
アエノコトの最大の特徴は「田の神は種子籾俵で翌年の春まで過ごす」と考えられている点です。つまり、稲に宿る霊魂が次の年の苗に継承され、家と田を循環しながら永続していくという構造がそこに見いだされるのです。
だとすれば、津野の例にこの構造をみいだすことは、あながち無理なことではないでしょう。それは同時に、刈り残された稲は本来的には稲に宿る霊魂の象徴であることを示唆します。それを家に迎え入れる行為を、特にわかりやすい演劇的所作として強調していった結果が、北部九州の丑の日にみられる最後の稲束なのかもしれません。
特徴C 複数の神
ところで、アエノコトでは田の神は男女二神であるとされていましたが、丑の日でも同様の例が少なくありません。(4)草場で稲が2束、赤飯2盛、なます2皿、柳箸2膳が用意されていたのも、それを物語っています。
その一方で、(3)平等寺では「作がよかったり悪かったりすると、荒神様と作神様の計算が合わないといって争いをさっしゃる」と伝えています。1組で1体ともいえる男女2神の田の神と違い、荒神と作神は喧嘩をするほど独立した神格です。家の台所を預かる荒神と、農作物をもたらす作神は、家計の支出と収入の緊張関係を如実に表しています。
このことは冒頭の草場の例で生じていた《丑様》は荒神かという疑問に答えを与えてくれそうです。つまり、草場でも荒神と作神=《丑様(ウシサマ)》は本来は別の神と考えられていたけれども、《庭(ニワ)》から竃が消え、荒神棚が祭りの祭壇を据える目印となった結果、《丑様(ウシサマ)》としての最後の稲束は荒神棚への供物と考えられるようになり、荒神と《丑様(ウシサマ)》の習合(しゅうごう)が起きたのではないかということです。
かつてあったであろうこの変遷(へんせん)を、はっきり証言してくれる人は、おそらくもう誰もいません。だからこそ、こうした取るに足らぬと思われそうな家ごとの小さな祭りを記録し、検討していく意義があるのです。