平成26年2月11日(火・祝)~4月13日(日)
21 黒田二十四騎画帖(母里友信部分) |
はじめに
今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公・黒田孝高(くろだよしたか)(官兵衛尉(かんべえのじょう)、勘解由(かげゆ)と称し、剃髪(ていはつ)後に如水軒圓清(じょすいけんえんせい)などと号す)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の参謀役、軍師として天下統一事業を支えたことでよく知られています。しかし、その一方で彼もまた、数多くの家臣に支えられていたからこそ、様々な局面で活躍し戦乱の世を生き抜くことができたのでした。
この展覧会は、孝高と彼の息子・長政(ながまさ)を支えた24人の功臣(こうしん)「黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)」を紹介するシリーズ4回目です。今回は、当館が近年新たに収蔵した、二十四騎を描いた「黒田二十四騎図」や二十四騎関連の武具や古文書、記録などを通して、「官兵衛を支えた男たち」を紹介したいと思います。
武具にみる二十四騎
黒田二十四騎とは、黒田利高(としたか)、黒田利則(としのり)、黒田直之(なおゆき)(いずれも黒田孝高の弟)、栗山利安(くりやまとしやす)、久野重勝(ひさのしげかつ)、井上之房(いのうえゆきふさ)、母里友信(もり(ぼり)とものぶ)、後藤基次(ごとうもとつぐ)、黒田一成(くろだかずなり)、野村祐勝(のむらすけかつ)、吉田長利(よしだながとし)、桐山信行(きりやまのぶゆき)(丹斎(あきとし))、小河信章(おごうのぶあき)、菅正利(かんまさとし)、三宅家義(みやけいえよし)、野口一成(のぐちかずなり)、益田正親(ますだまさちか)、竹森次貞(たけのもりつぐさだ)、林直利(はやしなおとし)、原種良(はらたねよし)、衣笠景延(きぬがさかげのぶ)、堀定則(ほりさだのり)、毛屋武久(けやたけひさ)、村田吉次(むらたよしつぐ)、以上24人の家臣を指す言葉です。二十四騎の多くは、播磨時代から黒田家に仕えており、まさに孝高や長政と苦楽を共にしてきた家臣と言えるでしょう。しかし、孝高や二十四騎が生きていた時代に「黒田二十四騎」という言葉や名称は存在しませんでした。24人を一括りにして「黒田二十四騎」と呼ぶようになるのは、二十四騎を描いた「黒田二十四騎図」が制作されるようになる江戸時代中期以降のことです。
二十四騎は、数々の戦場における戦功、武功によって黒田家を支えました。彼らの活躍の内容については、二十四騎が着用、使用した武具や、それらの由緒・伝来などを通して知ることができます。例えば、黒田一成所用の銀大中刳大旗脇立頭形兜(ぎんおおなかぐりおおたてものわきだてずなりかぶと)(資料番号1)は、一成が慶長(けいちょう)5年(1600)、関ヶ原合戦の前哨戦である合渡川(ごうどがわ)の合戦と、続く関ヶ原本戦で着用した兜です。兜の両脇からは銀箔を押した長大な脇立が立てられ、他を威圧する印象を与える一方で、あまりに脇立が大きいため、戦場で敵方から旗差物(はたさしもの)と勘違いされ、大砲を放つ目当てにされたという逸話が残っています。一成は、この兜を被(かぶ)って合渡川の合戦では長政らと先陣を切って川を渡り、石田三成(いしだみつなり)配下の武将を討ち取り、本戦でも戦功を挙げたと伝えられています。