平成26年3月11日(火)~5月25日(日)
「国史跡福岡城跡」上之橋御門石垣現状 (保存修復工事にとりかかる前) |
発掘調査は終わらない
福岡市内では今日も発掘調査がどこかで行われています。千数百箇所以上の遺跡を有する福岡市には発掘調査の終わりは見えません。まだ発見されていない手つかずの遺跡も眠っています。遺跡が長い眠りから覚めるとき、それは発掘調査によって掘り起こされたときです。遺跡によってはこれまで200箇所以上の調査が行われ、遺跡の全容が把握されつつある場所もあります。しかし、点のような小さな調査成果を「面的」に把握することは非常に達成感を感じる一方、地味で骨の折れる作業でもあります。このような地道な作業の先に、過去に生きた人々の暮らしぶりが見えてくるのです。
ふくおか発掘図鑑と題した展示も今回で第四回を数えます。今回の展示では縄文時代から近世に至る発掘調査から、最新の成果報告を中心に紹介します。
縄文時代は目立たない?
弥生時代以降の遺跡が非常に数多く分布することから「弥生銀座」とも称された福岡市内ですが、それ以前の人々の暮らしの姿も発掘調査により徐々に明らかとされつつあります。
早良区の内野・脇山地区では、農地整備に伴い大規模な範囲で発掘調査が行われ、縄文時代早期・前期・晩期の遺跡が発見されました。特に脇山の野中遺跡では、早期の終わりから前期はじめの土器や石器等の遺物が出土しました。約7300年前頃、鹿児島県の薩摩半島沖約50キロの鬼界(きかい)カルデラで大噴火が起こり、福岡にも火山灰が降下しました。野中遺跡に住んだ人々もこの大災害を体験したはずです。その時、どのような光景が広がっていたのでしょうか。また、ここでは石器の材料となる石材の入手先についても新しい知見が得られています。佐賀県の腰岳や大分県の姫島に加え、佐賀県嬉野市の椎葉川周辺で産出する黒曜石も交易品として持ち込まれていたことが明らかにされたのです。
弥生人のアクセサリー
博多区の板付遺跡から西側に見える小高い丘陵周辺には諸岡遺跡(もろおかいせき)が立地しています。この遺跡内で昭和28年に行われた神社建設の際、大野中学校長であった亀井勇氏によって甕棺墓が発見されました。当時は行政による発掘調査の体制はまだ十分ではなく、各地の有志によって遺跡の調査活動が行われていました。このような方々の尽力により記録として残されている遺跡も少なくはありません。甕棺墓には成人男性が埋葬されており、その右腕には貝で作られた腕輪、貝輪が8個体着装されていました。この貝輪はゴホウラという南海産の貝を縦に切って作られたもので、「D」の字形が特徴です。約2,200年前の弥生時代中期頃、遠い海から持ち込まれた乳白色の輝きを放つ貝輪は、人々の目を魅了したことでしょう。
資料が語る古墳時代
現在より約1400年前の古墳時代後期、数多くの古墳が丘陵斜面や山麓部に作られました。これらの古墳は群集墳と呼ばれ、狭い範囲に密集して築造されました。金武古墳群は早良平野から糸島平野へと抜ける日向峠(ひなたとうげ)沿いに営まれた古墳群です。この日向峠を越えるルートは弥生時代から使用されていたと考えられ、古代には官道に設定された重要な交通路でした。このような交通路沿いに約150基にのぼる古墳が造られました。ほとんどの古墳は盗掘されていましたが、発掘調査ではヒスイ製の勾玉や金環などが発見されました。また、県内でも十例ほどしか出土例のない三累環把頭(さんるいかんはとう)と呼ばれる刀の柄飾り金具が出土しており、葬られた人々がこのような品々を入手できる実力者たちであったことが分かります。