平成26年6月3日(火)~8月3日(日)
5 長霊癋見(ちょうれいべしみ) |
14 山姥(やまんば) |
はじめに
わたしたちの国には、世界中の人が驚くような長い歴史を持つ芸能があります。能は、その代表的なものの一つです。狂言とともにユネスコの無形文化遺産になっています。
福岡は、大濠公園能楽堂(福岡市中央区)のような設備の整った能舞台、住吉神社能楽殿(博多区)のような由緒(ゆいしょ)と趣(おもむき)のある能舞台があり、能を見る機会に比較的恵まれたところです。また、子どもたちが能や狂言に親しみを持てるよう、ワークショップなどの普及活動もさかんに行われています。この展示では、役者が舞台で用いる能面について、なるべく分かりやすく紹介しました。能面を見ることを通じて能や狂言に興味をもっていただければ幸いです。
能面とミュージアム
能や狂言の芸能としてのあり方が、今に続くかたちに整ったのは室町時代でした。当時、新しい文化であった能を好み、その担(にな)い手を最も応援したのは、足利将軍家をはじめとする武家でした。戦国時代の武将たちも、能役者を応援し、自分たちも稽古(けいこ)をつんで人前で舞うこともありました。豊臣秀吉も能が大好きで、自分を主役にする能の番組をつくらせたほどです。江戸時代に入ると、能は、あらたまった儀式の場やお祝い事、おもてなしに欠かせないものとなり、能や狂言を演じる役者は幕府や各藩のお抱(かか)えになりました。彼らは、上演の機会があるときだけ呼ばれて出演料をもらうのではなく、いつも決まった手当(てあて)をもらって生活や仕事にいそしんでいたのです。また、能の催(もよお)しに必要な面(おもて)や装束(しょうぞく)(能の衣装のこと)などの道具は、役者側だけではなく将軍家や大名家でもたくさん誂(あつら)えていました。いわば、江戸時代の能は、当時の社会体制により公的、かつ、ほぼ全面的に支えられていたのです。
この状況は、明治時代になると、がらりと変わってしまいます。幕府や各藩に抱えられていた能役者の多くは仕事を失い、新しい職業に就く人もたくさんいました。いっぽう、たいへんな努力をして能を伝える役者たちもいました。また、「海外に誇り得る日本の文化」を求めていた明治政府の役人や、華族となった旧大名、新しく財力を蓄えた経済人たちも、能を支えました。とはいえ、面や装束を手放す旧大名家や能役者の家もあり、元あった場所から流出した面や装束のうち、その一部が文化財として博物館・美術館にたどり着いたのです。