平成26年7月23日(水)~9月28日(日) 企画展示室1(7月29日~)・企画展示室4(7月23日~)
1953年新人賞 豊田泰光選手 |
よみがえるヒーローたち
昭和26年に誕生した「西鉄ライオンズ」の監督には、巨人から三原脩(おさむ)氏(監督在任:1951~1959)をむかえます。9年間西鉄ライオンズを率いて、リーグ優勝4回、日本シリーズ優勝3回。今から50年ほど前のことです。
とくに、昭和33年、西鉄ライオンズが日本シリーズ3連覇をかけた試合は、最初、巨人が3連勝し西鉄は絶体絶命の窮地に立たされたが、その後4連勝。三原監督の采配は「三原マジック」とよばれました。MVPに選ばれた稲尾和久(かずひさ)投手は7戦中6戦に登板、後半戦で26イニングを無失点に抑え、「神様、仏様、稲尾様」が流行語となりました。大下弘(ひろし)、関口清治(せいじ)、河野昭修(こうのあきのぶ)、中西太(ふとし)、坂上惇(あつし)、久保山誠(まこと)、西村貞朗(さだあき)、高倉照幸(てるゆき)、豊田泰光(やすみつ)、仰木彬(おおぎあきら)、滝内弥瑞生(たきうちやすお)、和田博実(ひろみ)、稲尾和久、畑隆幸(たかゆき)、村山泰延(やすのぶ)、阿部和春(かずはる)選手らを擁して黄金時代を築きます。
さて、今回は、日本シリーズ優勝関連品、西鉄ライオンズ名選手たちの愛用品の数々のほか、球団旗など数多くの関係品を展示致します。当時の感動を感じてください。
1959年5月号 ベースボールマガジンライオンズ表紙 |
野球に沸いた時代と福岡
日本は、昭和30年代から昭和48年(1973)の石油危機まで、未曾有の経済発展を遂げました。いわゆる高度経済成長期です。
この時期、福岡の街ではビル建設が加速しました。天神交差点には、昭和35年に天神ビル、翌36年には福岡ビルが建ちました。さらに、同年、西鉄福岡駅の高架工事が完了。岩田屋とひとつながりのビルになり、ホーム下には西鉄名店街が誕生しました。高架に伴って線路下に福岡バスセンターも完成し、渡辺通りは広くきれいに整備されました。
博多地区では、昭和33年から博多駅地区土地区画整理事業がはじまります。これに伴って昭和38年には博多駅が現在地に移転・開業しました。オフィスビルが相次いで誕生し、ビジネス街として発展していくことになります。
一方、昭和30~40年代は、全国的に都市への人口集中が進み、住宅が不足しました。これを緩和するため、日本住宅公団(現在の都市再生機構)が、各地で公団住宅を開発・供給し始めました。福岡にも昭和31年に九州第1号となる公団団地、曙(あけぼの)団地(福岡市早良区)が登場しました。間取りは、2部屋の和室とダイニングキッチンという2DKが基本でした。狭いながらも食事室と寝室を別にする「食寝分離」を実現しました。今では珍しくもありませんが、ステンレス製流し台、ガス風呂、水洗トイレなどは、当時は最先端の設備であり、団地に住むことは庶民のあこがれでもありました。
このように、「もはや戦後ではない」ということばに象徴される、街や人びとが活気あふれる時代のスタートが、福岡では西鉄ライオンズの黄金時代と重なっているのです。