平成26年8月5日(火)~10月5日(日)
奈良県明日香村 石神遺跡出土 具注暦木簡 (奈良文化財研究所提供) |
日々のくらし
昭和20年代の子どもの生活は大人から管理されない、遊びを中心としたのびのびとしたものだっ 当時の人びとが何を好んで食べていたか、栄養状態は?などといった素朴な疑問も、木簡が明かしてくれることがあります。
中央の平城宮・京には全国から各地の名産物が「調」という税の形式で集まってきます。その荷に取り付けられた札として木簡が出土し、最も多数を占めます。
例えば鰒(鮑 あわび)、伊委之(鰯 いわし)、堅魚(鰹 かつお)、鮒、磯鯛、麻須楚割(鱒(ます)の割り干し)、紫菜(むらさきのり 海藻)、若海藻(わかめ)、小麦などが見られます。鴻臚館跡では南館に南西部に伴うトイレ遺構SK57から出土した木簡に「鹿脯乾(ほじし)」(鹿の干し肉)、「魚鮨」(魚のなれずし)と書かれていました。
トイレ遺構では食物に寄生する虫の卵の殻、花粉などが検出され、当時の人々の健康・栄養状態、衛生環境までわかります。1992年、藤原京跡で科学的に実証され、注目されるようになりました。鴻臚館跡では籌木(ちゅうぎ)といい、使用済みの木簡を細く縦割りしたものを糞(くそ)ヘラとして再利用していました。
お祭りと信仰
律令制の定着は行政の方式だけではなく、行政の方式だけではなく、お祭りのしかたにも影響を及ぼしました。病や災いをもたらす悪い息を壺(つぼ)・甕(かめ)に吹きかけ封じたり、木製の人形や土製の馬に乗り移らせ、川や溝などの水辺で流し去るもので、「祓(はらえ)」といいます。 祓の儀式に必要な物品名を記す木簡が元岡桑原遺跡群で出土しています。同遺跡では他に池跡から道祖神信仰と関わる「道塞」木簡とともに、男根形・舟形・人形の木製品などお祭りに関わる遺物が出土しています。外国使節船の停泊地にも近く、疫病などの侵入を防ぐ目的が考えられています。 10世紀前半に書かれた『延喜式』には、お祭りに供えるものとして「鰒」・「堅魚」・「 (きたい)」・「海藻」・「薦(こも)(植物で編んだ敷物)」・「鍬」・「庸布」がみられます。これらは税の品目として木簡によく見えるものですが、生活必需品としてのみではなく、律令祭祀に必要な物品を調達する意図もあったのかもしれません。とすれば、古代社会は法律とお祭りの両側面から巧妙な支配のしくみを整えた社会といえるかもしれません。
(木下博文)