平成26年8月19日(火)~10月13日(月・祝)
図版①『暁斎画談』部分 |
はじめに
まずは、下の図版②をご覧ください。たくさんの人がいる大きな座敷が描かれています。画面の右下に描かれた縁側にいる人たちは、両手を挙げて大騒ぎ。どうやら、料理をしていたところ、まな板の上の魚が跳ねて土間にぼとっと落っこちてしまったようです。画面の左下をしめるように描かれた、大きな火鉢を囲む人たちは、その様子を見て、笑いをこらえることができません。さて、その奥(画面上方)に、描かれた人びとは、いったい何をしているのでしょうか?
この絵は『暁斎画談(きょうさいがたん)』という冊子の一見開きで、絵師(えし)・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)(1831~89)の伝記の挿し絵です。河鍋暁斎は、幕末から明治にかけて活躍しました。下総国古河(しもうさのくにこが)(現在の茨城県古河市)に生まれ、二歳のとき、本郷お茶の水の火消屋敷に勤めるようになった父親について江戸に出ます。小さな頃から絵が好きで、はじめ浮世絵師の開いている画塾に通いましたが、やがて、土佐の大名・山内家の御用(ごよう)をつとめていた絵師のところに弟子入りしました。間もなく、師匠の絵師が病気になってしまったので、師匠の師匠である狩野洞白(かのうとうはく)という絵師のところに入門します。先に見た絵は、この狩野洞白の邸宅内の様子が描かれており、画面内の人々の多くは、一門の絵師や弟子たちなのです。
御用絵師と狩野家
江戸時代、幕府や諸藩の御用をつとめた絵師たちがいました。彼らは、一定の身分や俸給が与えられ、城・屋敷の壁や襖(ふすま)、床(とこ)に掛ける軸(じく)、屏風(びょうぶ)の絵を制作するほか、さまざまな出来事を記録する絵、将軍や藩主、その子女たちの絵画教育、古画の鑑定(かんてい)など、絵画にかかわる様々な仕事を一手に担っていました。こうした絵師たちのことを御用絵師とかお抱(かか)え絵師と呼びます。
先に見た河鍋暁斎が入門した狩野家は、その御用絵師の頂点に立つ強大な一門です。狩野家には、いくつもの分家があり、それぞれの家は、幕府から拝領した屋敷のあった場所の地名を付けて呼ばれます。狩野洞白は、駿河台(するがだい)狩野家の七代当主。駿河台狩野家は、将軍にお目見えできる旗本格の奥絵師(おくえし)(鍛冶橋(かじばし)狩野家・木挽町(こびきちょう)狩野家・中橋(なかばし)狩野家・浜町(はまちょう)狩野家の四家)に次ぐ表絵師(おもてえし)の家です。表絵師の中では筆頭格にあげられる名家で、その当主ともなれば、江戸時代の画壇にあってはかなりの重鎮でした。先に見た河鍋暁斎は、のちにユーモラスかつ辛辣(しんらつ)な新聞挿し絵の原画などで超売れっ子となり、今でいう〝クールジャパン〟を体現するような画家でしたが、若い頃には、正統中の正統派であった狩野家に入門して、絵画制作の研鑽(けんさん)を積んだのです。
江戸の狩野家は、諸藩の御用絵師たちの家元(いえもと)的な存在でもありました。河鍋暁斎が入門した駿河台狩野家には、代々、福岡藩の御用をつとめた尾形(おがた)家の絵師たちも修業にきていました。暁斎は、尾形家八代の洞霄(どうしょう)、九代の探香(たんこう)とともに、嘉永(かえい)年間(184855)に霞ヶ関の藩邸の書院や座敷の障壁画を描いたことが分かっています。
図版② 「駿河台狩野洞白氏邸宅ノ図」『暁斎画談』 明治20年(1887)