平成26年9月30日(火)~11月30日(日)
西新町遺跡2次10号甕棺の人骨と貝輪の着装状況 |
「水人」の遺跡
集落は今から2千年以上前の弥生時代中期後半に西新町遺跡の南西部に形成されます。その東側には甕棺墓を主体とする墓域が営まれました。小規模な竪穴住居址が多いですが、9次調査地点などでやや大きい円形住居址がみつかっています。
石包丁など稲作農耕に関連する遺物はほとんどありませんが、漁網などの重りとなる滑石製の石錘や、鉄製釣針などの漁撈具が多く出土しています。『魏志倭人伝』には倭の「水人」として、入墨をして潜水漁を行うアマの記述がありますが、漁撈に携わる人々が注目されています。当遺跡にも、博多湾において網漁や釣漁を活発に行った漁撈民が居住していたと考えられます。
また、遺跡からは板状鉄斧(鉄素材)や鋳造鉄斧破片、ガラス製トンボ玉など、海外からもたらされた珍しい品々が出土しており、対外交易の拠点であったこともうかがえます。航海技術に長け、交易や航海の水先案内などを担った海民の遺跡と考えることができるでしょう。
西新町の甕棺墓群は「二列埋葬」状の集団墓地です。南海産ゴホウラ貝製腕輪や銅剣の切先などが出土していますが、ほとんど副葬品をもちません。大きい甕棺を2個合わせた埋葬も少なく、玄界灘沿岸域の甕棺墓制の中では、階層的にあまり高くありません。一方、首と胴体を別々に埋葬したものや、首だけを埋葬した小型棺(土器棺)など、特異な断体埋葬の事例が目立ちます。海民としての特殊性を物語るものでしょう。
西新町遺跡の朝鮮半島系土器 (九州歴史資料館所蔵品。一部を展示。) |
「倭(わ)」の交易拠点へ
弥生時代後期の西新町遺跡集落はあまり振るいませんが、古墳時代がはじまる頃、集落域が北に拡大して、竪穴住居址の数が急激に増加します。発掘調査でみつかった弥生時代終末期から古墳時代前期の竪穴住居址は500棟を超えますが、その2割以上に竈(かまど)が備わっていました。3~4世紀の日本列島ではまだ、地床炉が一般的ですが、朝鮮半島では竈(屋内暖房施設を兼ねるので「オンドル」とも呼称)が普及しているので、渡来人がその構築技術と生活様式をもたらしたと考えられます。また、朝鮮半島系土器の出土も古墳時代前期の日本列島では最も集中しています。韓国の西南から南沿岸域(全羅道から慶尚南道)で作られた土器が多く、窯焼成の瓦質(がしつ)・陶質(とうしつ)土器の壺や鉢と、竈の調理容器である甑(こしき)などが代表的な器種です。他にも、近畿、山陰、瀬戸内など外来系土器が多く出土しており、朝鮮半島や日本列島の各地から人々がこの西新町遺跡に集まっていたと考えられます。
古墳時代前期の鉄素材(板状鉄斧) |
漁網用の石錘は、古墳時代前期も多く、17次調査7号竪穴住居址では、漁網一式が廃棄されたと推定できる状態で、石錘がまとまって出土しています。西新町遺跡特有の形態の石錘が目立ち、博多湾での曳網漁を活発に行っていたと考えられます。他にも、小さい専用土器を使用する飯蛸壺漁や管状の土錘を使用する網漁など、瀬戸内地域に系譜のある漁業も行われるようになります。