平成26年9月30日(火)~11月30日(日)
三角縁二神二車馬鏡(古墳時代前期) |
この時代の墓域は西新町遺跡になく、藤崎遺跡の砂丘上に広がる古墳群が対応すると考えられます。これまでの発掘調査で墳丘長10m前後を平均とする方墳や前方後方墳が19基以上確認され、木棺や箱式石棺を埋葬施設としています。「三角縁神獣鏡」や環頭大刀などが副葬される3次調査6号墓や32次調査1号墓が藤崎古墳群の盟主墳と考えられます。32次1号墓の三角縁盤龍鏡は明治45年発見鏡で、滋賀県雪野山(ゆきのやま)古墳鏡と同じ鋳型で作られた鏡(同笵鏡(どうはんきょう))であり、3次6号墓の三角縁二神二車馬鏡(さんかくぶちにしんにしゃばきょう)は岡山県湯迫車塚(ゆばくるまづか)鏡や山梨県銚子塚(ちょうしづか)鏡などと同笵の中国製大型鏡です。いずれも大和政権が配布主体であったと考えられる鏡で、重要な古墳から出土するものです。環頭大刀も大陸製の可能性が高く、上位階層の武器です。一方、古墳群の副葬品には、西新町遺跡で海産物の採取や加工に使用された鉄製刃物(刀子(とうす)や手鎌(てがま))と同様のものもあり、西新町の海民と関連深いことが分かります。
藤崎の古墳群は、盟主墳でも15~20m程度の墳丘規模で、同時期の前方後円墳等と比べて大きくありませんが、三角縁神獣鏡などの副葬品から、大和政権にとって重要な役割を担っていた海民の墓と考えることができるでしょう。
古墳時代がはじまる頃、博多湾沿岸で漁業が再編されるのと軌を一にして、西新町遺跡が対外交流の一大拠点となります。列島内外からの多くの人々とともに、外来の文物を受け入れる窓口となり、交易市場を提供していたと考えられます。博多湾沿岸の海産物なども取引されていたことでしょう。弥生時代後半期の北部九州で最有力の勢力であった、福岡の「奴国(なこく)」と糸島の「伊都国(いとこく)」。西新町・藤崎遺跡はその中間に位置します。初期大和政権との関係は未解明な部分も多いですが、諸勢力にとって対外交易の重要な拠点であり、西新町の海民が大活躍した時代であったと考えられます。
古墳時代後期から近世
古墳時代前期の後半以降、西新町・藤崎遺跡は衰退しますが、環境変化や対外交流ルートの変化など諸説あります。遺跡群では古墳時代後期や中世の埋葬が散見されるほか、飛鳥時代から奈良時代の漁村的集落や鎌倉時代の中世居館の一部が藤崎遺跡でみつかっています。遺跡群の北には東西方向の砂丘列があり、元寇防塁の一部が発掘調査によって確認されていますが、この砂丘列は鎌倉時代頃に形成されたものと考えられています。中世後期はほとんど生活の痕跡がありませんが、近世になって次第に市街地化が進み、「西新町」と称されるようになります。そして、18世紀には高取焼系の東皿山窯(西新)と西皿山窯(高取)が開窯し、窯業で知られる町となります。藤崎35次調査では西皿山窯に関連する陶器の廃棄層や地形造成がみつかっており、当地における近世の窯業生産と流通についての一端が明らかになっています。
(森本幹彦)