平成26年10月7日(火)~12月14日(日)
弥生早期の水田に残された足跡のレプリカ |
はじめに
日本列島における水田稲作や弥生時代のはじまりに関わる遺跡としてよく知られる板付遺跡。昭和53(1978)年に「縄文晩期の水田発見」と大々的に報道された日本最古の水田には、人の足跡(あしあと)も残っており、遺跡のシンボルとなりました。
現在、発掘調査はあまり行われていませんが、遺跡の中心部は弥生時代を体験することができる史跡公園になっています。
本展示では、遺跡の概要について紹介するとともに、これまで板付遺跡が歩んだ「足跡(そくせき)」をたどってみたいと思います。
遺跡の発見
昭和25(1950)年、地元の考古学研究者である中原志外顕(しげあき)氏が遺跡内のゴボウ畑から「夜臼式(ゆうすしき)」土器と「遠賀川式(おんががわしき)」土器を一緒に採集しました。前者は縄文時代の終末、後者は弥生時代はじめの土器と考えられていたものです。
当時の日本考古学界では、縄文時代から弥生時代への移行期や稲作農耕をはじめとする弥生文化の成立過程に高い関心がありました。中原が発見した土器は、板付遺跡が弥生時代のはじまりを解明する重要な遺跡であることを物語るものでした。
板付遺跡は江戸時代や大正時代に青銅器が多数掘り出されており、古くから学界で注目されてきましたが、中原の発見が遺跡の性格を決定づける端緒となったのです。
日本考古学協会の発掘調査風景(第1区、1951年) |
日本考古学協会の発掘調査
本格的な発掘調査は、日本考古学協会の「弥生式土器文化総合研究特別委員会」の事業として採択されて、昭和26(1951)年からはじまります。特別委員会の委員長は、明治大学の杉原荘介で、発掘調査の主任は九州大学の岡崎敬でした。九州の考古学界をリードしていた森貞次郎や鏡山猛らそうそうたるメンバーが発掘調査に参加しました。
4か年かけての調査によって、濠(ほり)のような大規模な溝に囲まれた集落址であることが分かり、貯蔵穴なども多数みつかりました。土器のほか、石包丁をはじめとする石器や炭化米などが出土し、弥生時代はじまりの具体像が明らかになります。
その後の明治大学を中心とする日本考古学協会農業部会の発掘調査などで、長径約110mの楕円形の範囲を濠状遺構が取り囲む集落の姿がみえてきました。今日ではこのような集落形態を「環濠集落(かんごうしゅうらく)」と呼び、弥生時代の典型的な集落形態の一つと考えられていますが、板付遺跡はその先駆けとなります。
最初に日本考古学協会が発掘調査した範囲は環濠集落の北西部でした。ここには、直線的な溝で貯蔵穴群のみを区切った特別な区域もあり、大切な種籾を保管していた場所と考えられています。
地元では自治会や公民館などで組織される「板付遺跡保存会」が発足しました。昭和43(1968)年に『板付遺跡』を刊行して、遺跡の重要性を訴えるとともに、押し寄せる都市化の波に対して、遺跡の保存と遺物の散逸を防ごうとする運動を展開しました。
最古の農村
福岡市教育委員会を主体とする調査は、昭和46(1971年)の板付団地建設予定地の発掘から本格化します。
板付遺跡の発掘調査は日本考古学協会の調査から数えて、現在まで73次を数えます。
環濠集落が立地する台地の上はもちろんのこと、周辺の低湿地における発掘調査も進み、水田にともなう水路や木杭で補強された畦(あぜ)、堰(せき)などがみつかりました。農耕具などの木製品も数多く出土し、環濠集落周辺の農村風景が明らかになりました。
縄文時代の終末と考えられてきた夜臼式土器の地層にも水田があることが分かり、「縄文時代の水田」として、センセーショナルなニュースになりました。弥生時代のはじまりについて再検討をうながす発見になりましたが、弥生時代の定義については、今でも議論になっています。博多湾沿岸域に限られますが、夜臼式土器の時代に水田稲作農耕を行っている遺跡が他にも確認されていることから、この時代を「弥生時代早期」と呼ぶことがあります。
水田への給排水を調整するための水路や堰(せき)は弥生時代早期(そうき)の水田から備わっており、前期にはさらに大規模な灌漑施設(かんがいしせつ)をもつ水田となります。水田の基本的な構造は古墳時代以降にも継承されるものであり、弥生時代のはじまりから、優れた水田稲作システムを大陸から受容していたと考えられます。
水田の表面には弥生時代人の足跡も残っており、貴重な調査成果であるため、足跡を石膏で型取りしたり、県警に鑑識を依頼することもありました。
丹塗りの大型壺(15次調査) |
水田稲作では、鍬(くわ)と鋤(すき)(スコップ)などの農耕具や、堰と畦などの構築に木が多量に使用されます。板付遺跡で稲作がはじまった時代は、まだ金属が日本列島にはほとんど入っておらず、石器が主要な道具でした。木の伐採や材木を加工するために、各種用途に適した磨製石斧が発達します。
弥生時代の遺跡からよく出土する紡錘車(ぼうすいしゃ)
と呼ばれる孔のある小さな円盤製品。これは麻の繊維に撚りをかけるための道具です。紡錘(つむ)は回転によって糸をつむぐための道具ですが、その弾(はず)み車に当たります。新しい織物技術の一貫ですが、水田稲作農耕とともに大陸から伝わったと考えられます。
弥生時代には土地や水などを巡って争いの機会が増加すると考えられていますが、武器となる鋭利な石剣や鏃(やじり)(弓矢の先端)なども弥生時代を特徴付けるものです。環濠が争いに備えるための防御施設であったかどうかについては、異論もありますが、環濠の機能の一つとして想定されていたのではないでしょうか。
板付遺跡における水田のはじまりと、環濠集落のはじまりは厳密に言うと時間差があります。弥生時代早期に水田がはじまりますが、集落にまだ環濠は備わっていませんでした。水田が更に発展する弥生時代前期になって、集落にも環濠が営まれるようになり、福岡平野の中核的な集落へと成長します。
板付遺跡で作られた弥生時代前期の土器は「板付式土器」と呼ばれ、前期弥生土器の標識資料に位置づけられています。九州より東の農耕集落は板付遺跡に遅れる弥生時代前期後半以降に出現しますが、板付式土器が弥生土器の原型となり、稲作農耕文化とともに日本列島各地へと波及しました。