平成26年10月7日(火)~12月14日(日)
小銅鐸の出土(54次調査、弥生時代後期) |
「奴国(なこく)」へ
大正5(1916)年、板付遺跡内のかつて田端(たばた)と呼ばれた地で、地下げ工事中に甕棺と青銅製の銅矛、銅剣が発見され、9州考古学の草分けである中山平次郎が学界に報告しています。
このときの銅矛3口と銅剣4口は東京国立博物館の所蔵となっていますが、弥生時代中期初めの有力者集団を埋葬した墳丘墓が存在したと考えられています。環濠集落としては、末期段階ですが、この頃まで板付遺跡が福岡平野の中核的位置にあったことがうかがえます。
弥生時代中期後半になると、中国鏡などが多く副葬された「王墓」が出現し、福岡平野を中心とする「奴国」もこの頃には成立していた可能性が高いと考えられます。この時代になると、奴国を主導する集落は博多区の比恵(ひえ)・那珂(なか)遺跡群や春日市の須玖(すぐ)遺跡群に移ります。
中核的な集落ではなくなりますが、板付遺跡も奴国を構成する主要集落の一つとして存続します。
弥生時代中期から後期の竪穴住居址や井戸などが多くみつかっており、小銅鐸や青銅製の鋤(すき)先なども出土しています。奴国では青銅器の生産が活発になりますが、板付遺跡でも銅矛などの鋳型が出土しており、生産の一端を担っていた可能性があります。
また、弥生時代前期の環濠と重複して、「コ」字形に巡る溝がみつかっており、一辺の長さが50m近くあります。溝や柵を方形に巡らして有力者の居住域などを区画する事例がありますが、本例もそのような区画溝の一部と考えられます。
板付遺跡へ行こう!
福岡市教育委員会は史跡申請に先立つ昭和48(1973)年、現地に板付遺跡調査事務所を開設し、ここを本拠地にして板付遺跡周辺の発掘調査と公有地化の交渉を進めました。多くの研究者や歴史ファンが訪れるようになり、発掘調査には全国から学生が参加しました。
昭和51(1976)年、板付遺跡は日本の原風景に通じる農耕集落はじまりの姿を伝える重要な遺跡として、国史跡に指定されます。
このような重要遺跡の保存と活用のために板付遺跡調査整備委員会が組織され、平成7(1995)年に「板付弥生のムラ」が完成しました。環濠集落と水田の一部を復元していますが、環濠集落全体をまるごと復元するのは、当時、初めての試みでした。今では弥生時代を体験することができる史跡公園として市民に親しまれる憩いの場となっており、毎年の田植えと秋の収穫祭には多くの方が参加しています。
(森本幹彦)