平成26年12月2日(火)~平成27年2月1日(日)
博多町人・初代大田清蔵像 |
慶長(けいちょう)5(1600)年に筑前(ちくぜん)に入部(にゅうぶ)した初代福岡藩主・黒田長政(くろだながまさ)は、新たな城下町福岡を建設し、その中に商人や職人を集めました。彼らは中世以来の都市博多の商人などとも合わせて、福岡・博多(福博(ふくはく))の町人と呼ばれ、以後、約260年にわたる時代をこの地で過ごすこととなりました。
この展示では、本館に収蔵された町人関係の古文書、肖像画やその他の資料によって、主に江戸時代の後期から幕末期にかけての、藩の都市支配の仕組、彼らの営んでいた生業やくらし、それに基づいた町人社会とその変遷などを紹介します。
福岡・博多の町人の誕生
一般に江戸時代の町人とは、城下町の中で、表のメインの道路に面した細長い町屋敷(まちやしき)と呼ばれる土地・家屋を持ち、その屋敷の道路に面した店や家屋の間口(まぐち)に対して課された、藩への役目(公役(くやく))を果たしながら、商工業などの生業を営んだ人々です。彼らの住む区域は町屋(まちや)、町人地(ちょうにんち)とよばれ、町奉行の支配下にありました。さて一つの町とは、道路に沿って町屋敷が櫛の歯のように並び、その道をはさんだ反対側の町屋敷と合わせた両側のまとまり(「両側町(りょうがわちょう)」)で、この地域、空間的なまとまりが町人の身分のよりどころでした。
博多はこのような町が約100町、福岡では22、3町程集まった、大きな都市だったのです。福岡、博多には江戸時代の初めに、福岡月行司(つきぎょうじ)(後に年行司(ねんぎょうじ)とよばれる)、博多年行司がおかれ、町奉行の支配を受けました。
城下町福岡と博多には、藩の米や、領地をもつ家臣の年貢米(ねんぐまい)の売り払い分など、さまざまな藩の物資が集まり、それを取り扱う商人たちや、藩主や福岡城内、城下の家臣の日常の生活物資を扱う商人も多数いました。また江戸時代の初期から、武器や武具を製造する職人、大工といった職人たちが集められました。これら商人や職人は城下町の中で町を作り、その中の自分の町屋敷の中で生業とくらしを営んでいました。一般に城下町に米屋町、職人町、大工町といった町名が多いのはそのためです。町人たちが藩の御用を勤める場合は、「御用達(ごようたし)」、「御用聞(ごようきき)」などとよばれ、中には藩から扶持(ふち)を与えられる町人もいました。
都市と町の支配と自治
城下町の町人地の中では、町々の一つ一つが行政と自治の単位となっており、「年寄(としより)」が置かれました。年寄は町の中心的な町人が任命され、町の構成員である町人から公役や切銭(きりせん)などを徴収し藩へ上納することが主な仕事でしたが、町人の町屋敷の売買の保証も行い、町屋敷を経済活動の担保(たんぽ)にしている町人にとっては、重要な存在でした。
また町の中にある町屋敷(町人の住まい)ごとの宗旨改などを行うのも年寄です。さらに年寄などと一緒に町の自治に参加する町民たちを中心とした「町中(ちょうちゅう)」があり、山笠祭礼準備のため、町で貸屋を経営し、家賃を山笠造営の資金に充てたりしました。なお博多では10町前後で「流」といわれるまとまりを作って、都市の治安や管理といった自治も果たし、災害や飢饉の際には、「流(ながれ)」の町々は強く結びついて行動しました。