平成26年12月2日(火)~平成27年2月1日(日)
福博町人の家と人々のくらし
大商人や町人の家・屋敷は大きく分けると、店や店舗で商売や作業を行う表の空間と、主人や家族が生活する、裏方として区別された奥の空間がありました。表方は主人と男性の番頭、手代以下の奉公人の世界で、十代半ばの少年の時から奉公を始める、これらの表方の奉公人の中には、長年の勤務が認められて暖簾分(のれんわ)けを許され、自分の店を持って新たな町の住人となる人もいました。
裏方の主人公は、主人の妻である女主人とその管轄下にある家族、家の中で彼らの身の回りの世話をする女中衆、さらには台所の賄方(まかないかた)の女性や下働きの男性奉公人たちでした。女主人は単に裏方として、店の表方を支えるのではなく、主人と並んで家の経営全体に責任を持っていました。現代のいわゆる「ごりょんさん」のルーツです。先代の主人やその家族が奥で隠居所(いんきょじょ)を営むこともありました。このような町人の一家の家族、親類や分家によって、一族・同族の集団ができており、冠婚葬祭(かんこんそうさい)が営まれました。嫁取り、婿取(むこと)り、家の分家などは、家の永続と経営を保証するため、一族たちの賛同のもとに行われました。
経済の発展と町人の格式
江戸時代の中期から福岡、博多では新興商人が問屋や製造業者として成長し、かつての特権商人などは経済的な力を失いますが、嶋井(しまい)、神屋(かみや)、大賀(おおが)など由緒をもった家は、藩や町奉行所から、年貢米や、豊かな筑前の農村から商品として流れ込む米穀、同様に重要な産物であった蝋(ろう)や繰綿(くりわた)などの、福博への出入の管理を任されています。さらに嶋井家は、都市内で日用(ひよう)(雇)労働(おもに体を使った単純労働の、江戸時代の呼び方)を生業とする人々を配下にして管理といった仕事をする日用(雇)頭(がしら)に選ばれました。このような都市経済と社会の新しい変化にそなえ、町人格式の整備が江戸時代の中期以降に始まったといわれ、町政や藩政への寄与、献米銀等により、大賀氏を筆頭に町人には大賀並(なみ)、年行司格(かく)、御用聞町人格など、さまざまな格式と特権が与えられました。
幕末の動乱と福博町人たち
幕末には、苦しい藩財政の再建策や、博多の町全体の振興策を考えて、藩に意見書を提出し、周辺地域もふくめた事業を起こそうとする町人も出ました。多くの富裕な町人は藩財政や軍事費を補うための御用金(ごようきん)や、都市の社会生活を安定させるための救済費用を負担し、中には自発的に巨大な献金を行い、藩から新たに格式を与えられる町人が多数出ました。
一般の町人や都市民も藩への夫役(ぶやく)(海岸の台場や陣地構築の手伝い)などを負担しました。そして明治という新たな商工業発展の時代を迎えたのです。(又野 誠)
御書付(大山忠平奇特の沙汰)